鉢屋が働いているバーを出た私は、夢菜がバイトしている某飲食店への道を歩いていた。毛糸で作られたポンチョは暖かいけれど、それに勝るような外の冷気が体を突きさす。先ほどの鉢屋の表情を思い出して、こっそりと頬の端っこをあげた。よかった。ただそれだけだ。鉢屋が何を抱えているのか、簡単に他人に話せることではないことはこれまでの彼との会話で察している。けれど、こちらの世界に鉢屋が少なくとも身を置けるような場所が本当に実在し、彼もそこに身を置くことを拒んではいないということに安心した。気持ちの悪い笑みを浮かべていない鉢屋の鉄次への態度はどこか彼の本心らしかった。下手な芝居をしていないということだけでも、近づけたのだという印象を与えてくれる。それだけのことが嬉しい。それは私に向けての態度ではないけれど、それでもそう思わずには居られなかった。

「下の名前で呼びたいけど、さすがに怒られるよなあ」

 一定の距離が満たされてしまうと、それより上を望んでしまうのは人の性だ。湧き出してしまった欲を独り言としてぽつりと零した。鉢屋はこちらの世界では専ら卓也で通しているようである。本名で呼ぶのは何かと都合が悪いであろう。その前に呼ばせてくれるか否かさえもはっきりしてはいない。というよりもどう考えても無理だ。想像するだけで満足することにした。ドリーマーの得意分野だ、ばっちこい。

 だが、邪な私の妄想は直ぐに別の方へ意識を持っていかれることとなった。普段なら気付きもしないで通り過ぎていただろうがその時は何故だか私の視界に彼の姿は止まった。路を挟んだ向こう側の歩道に二人の男女の姿があったからだ。びっくりして、足を止めた。しかも、見ればその片方は私が良く知る人だった。

「雷蔵だ」

 思いがけない人物に遭遇した。それも、彼の隣に綺麗なお姉さんがいるのだ。ぼん、きゅ、ぼんと遠目からでもわかるほど出るとこは出て締まるところは締まっている綺麗な体型の恐らく年上だと思われる。最初は逆ナンかと思っていた。最近は肉食系女子も増えてきたということだし不破ほどのゆるふわでお落な男の子は格好の餌であろうと納得したのだが、どうもそれはとは様子が違うようだ。女性が一方的に彼に話しかけているわけではなく、不破の方も積極的に彼女と会話していた。誰なのだろう、と私はもちろん気になった。当然のことだと思う。彼らはあまりこちらの世界で人間関係を広げようとはしていなかったから。しかし次第に純粋な疑問を踏みつぶすかのように別の感情が胸に込み上げてきた。はっきり言ってしまえば、あまり良い感情ではない。

「……」

 じっと無言のまま見つめているとさすがに不破はそれに気がついた。少しだけ目を見開いて、驚いたようにこちらを見た後、彼は険しい顔をした。隣のお姉さんに一言だけ―恐らく、ごめん、だろうが―告げた後くるりと踵を返して横断歩道を渡りずんずんとこちらに近づいてくる。やばい、と思った。あの表情は何か怒っているに違いない。怒らせるような事をしただろうか。ガン見していたことは認めるがそれ以外にどこも私に非はなかったはずだ。しかし不破に怒られたくはない。よし。このままダッシュで逃げてしまおう。踏み込んだ足に力を入れた。

 しかし、私が到底かなう相手ではなかった。昔はテニス部に所属していたため自慢の脚力も、二年もろくに練習していなかったら衰えるに決まっている。現役の忍には通用しなかった。数メートルもしないうちに右手をぱっと捉えられ、厳しい目を向けられた。皺がよった眉毛がいっぱいに映る。うわあ。

「……雷蔵さん」
「なんでこんな遅くに出歩いてるの。友達の家に泊りに行くんじゃなかったっけ?」
「荷物はちゃんと置いてきたよ。けど、友達が夜までバイトだから。迎えに行こうと思って」

 彼は、へえそうなんだ、というちっとも納得していないような軽い返事をして微笑んだ。普段はふわふわと場を和ませてくれるはず彼の笑顔がとてつもなく怖い。背筋が凍ってしまいそうだった。鉢屋に睨まれた時―冷徹な瞳とも言うべきか―その時も恐怖を感じたがこちらからはまた別の恐怖を感じる。

「夜道は一人で歩かないでね、って前にも僕は言ったよ。完全に彼から解放されたわけじゃないんだから」

 不破の眉間には似合わない皺が寄っており、それがより彼の必死な心情を表していた。鉢屋の名前を呼ばずに、彼、と濁したところがまた不破がどれだけ彼に対して気をもんでいるのか、それがはっきりとわかる。けれど実際のところ、不破には内密にしているが、鉢屋とのもめごとの心配が表面上はなくなり円満な関係を築いていけているのだ。その中で本来ならば持っていなければならない警戒心がまるで皆無になっていた。私の落ち度だ。今のところただの私の注意不足だと不破は解釈しているようだが、勘が良ければ楽天的な態度にぴんとくる人もいるかもしれない。今後の行動もより注意しなければならないな、と内心で強く思った。二度目の彼からの説教に見た目だけでも反省していますという態度を作り出してはいたが、内心は誤魔化せられるかどうかそればかりが気がかりであった。申し訳程度にごめんなさい、と口にしたが二回目ともなると信憑性がまるでないのだろう、無言のままその言葉は流された。私もそれ以外になんという言葉を言えばいいのかわからず―下手に口を開けば、いらぬ情報までぺらぺらとこの口から出てしまいそうだったので―無言の沈黙を作った。先に折れたのは不破の方だ。公共の道のど真ん中でいつまでもこうしていては話にならないと思ったのかもしれない。はあ、と大きな溜息が上から降ってきた。

「友達のバイト先まで送るよ」
「い、いい。いらない」

 これがもし普段の私だったら不破の申し出を受けていたはずだ。状況が状況でなければ、それは当然のことだろう。だが、今回ばかりはそうもいかなかった。胸の内で渦巻く感情は、不破をこれ以上私の近くに寄せることを拒否していた。近づきたくない、と思ってしまった。自然と数歩、彼との間隔をあけて私はゆるゆると首を横に振った。不破の眉がこれ以上なくつり上がった。

「さっきの言葉、ちゃんと聞いてたの」
「だって、あの女の人は?」

 反対車線の歩道に立っている綺麗な女の人にちらりと視線を向けた。つられて不破も後ろを振り返る。そして彼女の存在を見落としていたのか、あ、と小さな声を漏らした。

「待ってるんでしょ、雷蔵のこと。私なんかのことより彼女の方にいってあげればいいじゃん」

 拗ねたようにそう呟いた。後から考えればすごく嫌味な言い方だったろうと思う。してしまったあとになって、どうしよう、と後悔はするのだがこの時ばかりはそのような感情が頭の中からするりと抜け落ちてしまっていた。少なくとも、冷静ではなかった。彼女のことにしてももっと他に言い方があっただろうに。比較的気の穏やかな不破も、先ほどのこともあったため、堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。そっぽを向いて顔を合わせようともしない子供っぽい態度の私を呆れたように眺めて、再度深く息を吐いた。

「確かに待たせてしまってるし、彼女のことは考えなしだったけど、その言い方はないと思う」

 そう、はっきりと口にしてから、くるりと振り返ってもときた道を帰っていった。その後姿が視界に入った瞬間から私は既に後悔し始めていた。しかし、元来意地っ張りなところもあって不破を追い掛けるまでには至らなかった。黙って彼を見送る。胸から湧き上がってくるイライラとした感情が増していた。

 私はこの時まだ受け入れられずにいた。どうしてもういい大人なのに不破の態度に反発してしまったのか。どうして一人の女性に対してあのように過剰に反応してしまったのか。真実をあるがままに受け入れるのはもう少し先のこととなる。ぐ、と感情を堪えるように右手に力を込めて握り、さっと足を動かした。友人のバイト先まではあと数分間で辿り着ける距離だった。





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*101023