*鉢屋視点

 今日は普段より何倍も男女の数が多い。世の中はバレンタインデーというまさに男女のための催しごとがある日なのだそうだ。しかし実際は西洋の習慣を製菓会社の陰謀といわんばかりに日本独自のこじつけがなされた作り物の記念日らしい。奇妙な習慣が根付いたものだ、と朝のバラエティーニュースを見ながらぼうっとそう思っていた。自分には関係ないと安易にとっていたら、来る女性客に次から次へと手渡される四角い箱。甘いものがそんなに好きではない鉢屋からしてみれば、只の迷惑でしかなかった。それに、人からもらったものに口を付けることなんてできるはずがない。どうせ、あとからごっそり燃やして黒い炭になってしまうのだ。いちいちありがとうと心にもない言葉を繰り返すのが面倒で仕方がなかった。朝から何十回繰り返しただろうか。その回数を数えるのももはや一つの拷問でしかない。両手では足りなくなった頃から止めてしまった。

 そして今、カウンター席に一人で腰を掛けている若い女性がいる。彼女もまた鉢屋に一つの包みを差し出したのだった。表情は笑顔。本来なら、どういうつもりか、と突っぱねてやりたいところだがここは仕事場である。黙って、更には少しばかりの笑みまで貼りつけてそれを受け取った。同じくカウンターでその様子をうかがっていた鉄次が横やりを入れてくる。

「モテモテだなあ、卓也」
「……止めてくださいよ、マスター」

 明らかに楽しそうな笑みを浮かべている鉄次に余計な御世話だと言わんばかりの視線を投げつけて、手渡された小さな包みを見た。透明になっているそれの中身は黒いケーキ。鉢屋はそれに何が使われているのかは知っていたが、これがどういう名称で呼ばれているのかは知らなかった。見た目はカステイラに近い。あれが真っ黒になったらこうなるだろうという感じだ。

「一人で来るなっていっただろ」
「友達のところに泊りに行くって言ってきたから。ただ、友達が夜までバイトがあるから着いてきてもらえなかっただけなんだ。きちんと留守は伝えてきたので平気」
「そこまでして来店した理由が……これか」
「そうです」

 はへらり、と顔を緩めた。小さなチョコレート一つで何故こんなに躍起になっているのか、今朝から沢山の女性の頬を染めた様子を眺めてきた鉢屋は不思議でならなかった。こんなものを渡すために態々やってきたとか。それも、一つ間違えば自分の首が飛んで行ってしまう結果になり兼ねないのをこの目の前の女は覚えているのだろうか。たかだか一週間前にも、それ以前にも、何度もその恐怖を伝えたはずなのにまさかあっさりと忘れてしまっているわけではなかろう。確かに、自分を探る様な視線は来ていないが。彼女の跡を気付かれずに付けることぐらい、あの四人ならば可能だ。渋い顔つきになっている自分を見て、さらりと彼女は言った。

「受け取ってもらいたかっただけだから」

 その言葉には鉢屋がこの包みをどのように扱うのか、既に想定しているようだった。まあ、彼女の家には自分と同じような奴が四人もいるのだから事前に付き返されたり、食べないと言われたりしたのかもしれない。笑顔の割に暗い表情をしているのはそのためだったのかと一つ溜息を零した。わかりきってるんなら、わざわざ持ってくるんじゃねえよ、と言いたかった。捨てる手間をわざわざ作らせるなんて無駄にもほどがある。

「これ飲んだら帰るよ」

 一口、深い橙色のオレンジジュースに口を付けた。もちろん、ノンアルコールだ。鉢屋はここで接客を行うようになって見たこともなかった種のアルコール類には随分詳しくなった。そして、まだ一ヶ月しか働いていないのだがバーに一人でやってきてソフトドリンクを一杯だけ飲んで帰っていく女性は見たことがない。自分がそれなりに飲むからだろうか、ふと疑問に思ったことを口にした。

「お前、酒飲めないのか」
「飲めないんじゃなくて飲まないの。まだ未成年だし」

 未成年、と言う言葉に聞き覚えのない顔をしてそれを悟ったのか、小さな声で彼女は説明した。そこの辺りの察しは相変わらずいい。あの四人とともに暮らしているだけあって、このようなことは日常茶飯事の様だ。こちらの世界では、二十歳が人生の一つの節目だということらしい。酒、煙草の解禁は二十歳を超えてからだそうだ。ただ、それだけではなく、同時に大人としての責務を背負わなければならなくなるとも彼女は言った。

「でもまあ来週歳取るんだけど。ああ、そうだ。その時はカクテル作ってほしいなあ」
「もう来なくていい」
「卓也、うちの営業妨害は止めてくれないかな」

 呆れたように鉄次は目じりを下げた。すいません、と素直に鉢屋は謝罪する。それを見たははっと目を見開いていた。そして驚きの表情から次第に笑顔に変わっていく。ゆるりとした曲線を口元に浮かべていた。

「……なんだよ」
「ううん、なんでもない」

 ほっとしたような雰囲気を漂わせていた。腑に落ちなかったが、なんとなく彼女が言いたいことはわかる。彼女は、勝手に自分のことを保護対象としてみているようだ。鉢屋にとっては全くいらぬ感情だが、どうしてかな、鉢屋はそれを心地よいと思ってしまっているようだった。いや、思い始めていた。数週間前まではただのその辺りの女だった彼女が明らかに鉢屋の心の中に侵入し始めていた。本来ならば、鉢屋は絶対に自分の領域に他人を入れようとしないそんな人間だったはずだ。だが、例外というものはいつでも訪れる。以前のように。その以前の繋がりはもう壊れ去ってしまった後だが、自分はいまだにその甘く、緩やかなそんなぬるま湯を求めているようだ。彼女だけではない、隣にいる鉄次だって同じような眼差しで鉢屋を見つめてくることがたまにある。彼の場合はどうして見ず知らずの他人にそこまでできるのかと疑問に思ってしまうが、時代が異なるのだから過剰に保護欲を持っている人間がいてもおかしくはないだろうと納得させる。何よりここから出て行くのも不都合だ。自分がどうやって元の世界に戻ればいいのかその手掛かりは一向に見つからなかったから。カラン、と氷がグラスにぶつかる高い音に耳を傾けた。どうやら中身は空っぽになってしまったようだ。は静かに立ち上がった。

「ごちそうさま。またメールしてもいい?」
「無断で勝手に店に訪れてくれるよりは大歓迎だな」
「……すいませんでした」

 それじゃあ、とひらひら手を軽く振って彼女は二月の寒い外に出た。洗い終わったグラスを拭きながら、先ほどまで座っていた椅子を眺める。寂しさと切なさが胸を襲ったなど嘘だと思いたかった。





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*101020