当日の朝、バイトが終わるのがおそく鈴木には十二時過ぎた夜中に渡してしまったのだが、他の四人は家に帰ってから渡した。今日ももちろん大学は通常運営なのであまり遅くまで寝てはいられず、しょぼしょぼする目をこすりながら四つの袋をテーブルに並べた。バレンタインという存在をもちろん彼らが知っているはずもなく、一部を覗いて差し出された真っ黒い物体に困惑した表情を浮かべていた。これがチョコレートか、と竹谷が呟いたのが聞こえる。バイトからの帰り道―彼は、鈴木にチョコを手渡した時にその場にいたので―バレンタインがなんたるか、チョコレートがなんたるかを眠気覚ましにと思って説明しながら歩いていた。ほほう、これが実物かと関心を持っているのもそういう経緯があってのことだと思うと頷ける。

 チョコレート事態は不破、尾浜は甘味が大好きなためちょくちょくスーパーやコンビニに甘味目当てに買いに行くので幾度か口にしたことがあるようだ。けれど、竹谷はそちらよりも塩っ辛いものの方が好きらしいので見たことがないと呟く。久々知に至ってはいちいち言わなくても分かるだろう。白く、つるんとしたものにしか興味がない。食べてもらえそうだろうか、とちらりと相手の表情を伺った。

 伺ったその瞬間に驚くべき光景を目にすることになる。

「甘いな、これ」

 かさかさとビニール袋を開く音が辺りに響いた。微かなチョコレートの甘い香りがあたりにふわっと広がった。そしてもごもごと口を動かす微かな音も聞こえた。私は目を瞬いた。周りの三人も同様だ。私ほど驚きが顔に出ているわけではないが、竹谷の行動に衝撃を受けているのは事実だった。

 私たちが何に対して驚いたのかというと、それは竹谷が毒味もせずに私が作ったものを口にしたことに対してだ。これまでの経緯で、彼らは店先で買ってくるもの、私が触れていないものに対しては毒味をせずとも手を付けくれるようになっていた。それはもちろん、そこに他意が介入されないからだ。店で購入したものは不特定多数の人物の口に入ることを前提として売られているため、毒を混入させる理由が低い。そういう観点は恐らく、彼らの世界でも同じだろう。全ての食物に対して疑いを持っていたら食べるものがなくなってしまう。ただ、私が触れていないもの、というには語弊があるかもしれない。例えば、久々知が今晩の夕食を作ったとしても毒味は決行される。表面上ではどれだけ和やかにすぎようともその程度の信頼関係しか成り立っていないのだ。されている方としては真っ向から疑われているのだと感じてしまい、いい気分はしないけれど、彼らはもはや当たり前のようにそうしているので私も口を出さなかった。

 けれど、あれほど毒味に対して気を配っていた彼が、今何をした。非難がましい視線を前後左右から受けた竹谷は、自分の行動にやっと気が付いたようで苦い笑みをうかべた。

、口」

 ぽかん、としていると不意に竹谷に名前を呼ばれる。何、と答える間もなく、大きな一口でほとんどなくなってしまったガトーショコラを無理やり放り込まれた。むぐむぐごくん、と喉が鳴る。ほんのりとした甘さが広がったのも感じることができず、無意識のうちにそれを呑み込んでいた。

「お前な……そんなの後の祭りだろうが」
「すーぐ調子乗るんだから、はっちゃんは。まだまだ甘いねえ」
「さすがに僕も助言が見つからない」

 三者三様に呆れたような突っ込みが入る。苦笑いが含まれているのは、やはりどこかで私が実際に毒を混入させることなどしないとわかりきっているからだろう。ではないと、驚きに引き続き緊迫した空気が流れるに決まっている。竹谷は、きまりが悪そうに私のほうを振り返った。

「これにもし毒が入ってたら一緒に死ぬか」

 普段であればこの台詞を聞き流していたかもしれない。けれど、今回ばかりは私の心の琴線に触れた。竹谷は茶化すためにいったのだろう。それはわかっている。だが、ムカ、と心の奥に嫌な感情が流れ込んできたのもまた事実だった。

 彼らにとって毒味は必要不可欠なものだ。長くて二ヶ月という時間しか共に過ごしていない私の手料理を、それも彼らに食べさせるために作ったものを、無邪気に口になんてできないだろう。それはもう十分理解している。だが、一瞬不意にひょいと持ち上げられたあの衝撃をつき落とされたような感覚だった。

「なんでそんなこと言えるの?」

 動揺で、声が微かに震えている。四人の動きが止まった。これ以上先は口にしてはいけない―敢えて避けていた部分である―けれど、今回ばかりは感情が高ぶって抑えられそうにもなかった。ずっと前から、この日にチョコレートをあげることを、楽しみにしていたからだろうか。慣れていたはずのそのショックはずっと大きかった。

「毒なんていれないよ。二ヶ月間も私のご飯食べててまだわかんないの」

 じわり、と目に熱いものが溢れた。言わなくてもわかるそれは随分と久し振りに目からこぼれ落ちる。ぽた、ぽた、という小さな雫の音に耳の良い四人は直ぐに気がつき、驚いているようだった。むしろ私も自分で自分に驚いた。人差指を目に当てると、暖かい水で濡れた。周りの雰囲気が段々と驚愕から戸惑いに変わってきている。何をしたらいいのか、わからないと言わんばかりに身動き一つしない。

「私はこの世界で生きてきて、毒味をしなければならないほどの緊迫した状況下には置かれたことは一度もない。だから気持ちが理解できないのかもしれないけど、疑われ続けるのはさすがに辛いよ」

 掠れそうになる声ではっきりと言った。涙声であったけれど、乱れたりはしなかった。



 久々知が短く、私の名前を呼ぶ。突き刺さるような声色だった。びくり、と肩が大きく震えた。普段から彼の物言いは堅苦しいが、私の恐れもあるのだろう倍以上冷たく硬く聞こえた。けれど彼は名前を呼んでみたはいいものの、何を言えばいいのか見つからないのか、それ以上は口にしなかった。

 いきなりこんな所で泣かれて、困ってしまうのもわかるけれど涙は止まることを知らない。せめて見ない様に顔を伏せて泣き顔を隠した私の肩を不意に尾浜が抱きしめた。

「貪欲なのはいいことだよ。にそれを与えてはあげられないけれど」
「……」
「ごめんね」
「……勘ちゃん」

 謝罪されるほど悲しいことはなかった。超えられない一線があることを、真正面から感じてしまった。割り切っていたと思っていたけれど、信用されていないというのは精神的に辛いのだという気持ちやはり自然と蓄積していた。黙って、優しく、見守られるほど私も大人ではなかったということだ。涙の跡が頬を伝い、しゃくりあげこそしないものの止まる兆しも見えない。尾浜は次第にポンポンと背中を一定のリズムで叩き始めた。幼い頃、兄弟と喧嘩をして負けたときに母親がしてくれたそれとよく似ていた。目を閉じて、そのリズムを全身で感じていると別の暖かい手が頭を撫でた。この感触は良く知っている。そっと目を開くと決まりが悪そうな竹谷がいた。いつも慰めてくれるその手は今日ばかりは遠慮がちで、普段ならもっとがしがしと乱暴な手つきなのにそれが欠片もなかった。

、あのな」

 竹谷ができるだけ柔らかい声色で諭すように話し始めた。

「一人の人間を全くの無条件で信頼できることは不可能だ。俺たちは、お前を信頼しているとは確かに言うことができない。信頼しすぎるのも危ういものなんだ」
「うん」
「だけど、逆に全くを信頼していないわけじゃない。そんな素振りを俺は見せてないだろ」
「……そうだね」
「それじゃあ、駄目か」

 懇願するかのような目でじっと見つめられたけれど、駄目じゃない、とははっきり返せなかった。彼の言い分は十分に理解することができる。だが、今の現状に不満だから、今回の彼らの行動に心を乱されたのだ。

「信頼して欲しい、と思うのはわからんでもない欲求だと思うが」
「だけど、それは不可能なんだ」
「僕たちだって、その曖昧な世界にいるんだよ」

 竹谷の言葉を機に全員が続けざまにそう口にした。久々知、尾浜、不破は複雑な表情を浮かべて私を見つめていた。

「今後、俺たちが毒味を止めたとする。そしたら、俺たちはの一挙一動に過敏に反応することになるだろうな。少しでも怪しいと感じたら食べ物に手を付けないかもしれない。そちらの方がより気分を害されると、そう思うことが多いはずだ。それに、はっちゃんが言った通り、全くを信頼していないわけではない。もしそうなら俺たちはとっくにここから出て行ってる」
「それに、もしもちゃんがいなかったらきっと僕たちは同居なんてできていなかったんだと思う。貴方がこうして毒味役をかってくれていることで僕たちはここに暮らしていられる」

 私が毒味役をかっていなかったらどうなるというのだろうか。理解できていない、不信そうな顔をしていたのだろう、尾浜は不破の言葉を補う様に私に告げた。

の存在が俺らの現在の均衡を保っているということだよ。考えてもみてごらん、俺を含めた四人が共に暮らすのに誰が毒味役を進んでする奴がいるか。俺達はその危険性を十分にしっているから誰もしようとは思わないだろうね。そこで、まあ―自らが手がけた料理だからということもあるんだろうけどその役をが行うことで、危ういこの関係がどうにか成り立っているんだ。忍者というものを君はよく知らないから平然とその役をかってたんだろうけど、俺らならいつだって毒物を混入することはできるんだよ?」

 殺すことはいつでも可能だったということだ。そして、それでだ危険な状況に私は身を置いているのだ。同時に、改めて危険な世界で生きてきた彼らの生き方を目の当たりにした。私は考えてもみなかった。彼らが毒を盛るということも、場合によってはありうるわけだ。これだけ同じ空間に暮らしていて、口先だけでは協定だなんだいいながらも、殺さない可能性はゼロではないし、毒殺なら誰がやったなんてわかりにくい。遠まわしに、考えが足りないんだよ、と言われているような気もした。―けれど、今までそのようなそぶりはまるでなかった。誰も死んではいない。そして、その関係は私があることによって成り立っている。彼らにしてみればそう見えるのかもしれない。

「それとも、出ていった方がいいのか」

 そうすれば、私の肩の荷は下りる。この不快感も、そして危険な行為もなにもしなくてもいい生活が戻ってくるのだ。竹谷のその言葉に咄嗟に顔を反らした。嫌だ、とは言えなかった。けれども、そうしてほしい、という肯定の答えも出せなかった。本心はやはり、一緒にいたいと思っているから。小さく首を横に振った。無言の意思表示だった。その様子にくすり、と尾浜は微笑んだ。竹谷がするように肩ではなく頭の旋毛のあたりをぽんぽんと軽く撫でた。尾浜の体温は暖かかった。

。はっちゃんが羨ましいんだって」
「お前、何を」
「交代しようか?」
「ちょっと待て。おいこら勘」

 ずるずると竹谷の前まで尾浜は私を抱きしめた状態ですり寄って、はい、と明るい声で竹谷に私を預けようとした。不満そうな声―失礼にもほどがあるが―をあげる竹谷をからかっているのだということがすぐにわかった。場の緊張感を和ませようとしているのだろう。これ以上凭れかかってはいけない、とぐいと胸を押し返した。緩くなった鼻をすする。おや、と彼は片眉をあげた。あわあわしていた竹谷もほっと胸を撫で下ろした。失礼な奴だなあと鼻を鳴らすも確かにこんなに汚い泣き方をしている女を抱きしめたくはないだろう。ちろ、と少し離れたところでこっちの様子をうかがっていた二人にも視線を寄せた。おもむろに残り三人のガトーショコラを引っ手繰ってそれぞれ一口ずつ口に含んでいった。喉を鳴らしてそれを呑み込んで、ぽい、と乱暴に投げ返す。
 
「毒味したから、嫌じゃなかったら食べて」

 私はそのまま洗面台に逃げ込んだ。恥ずかしすぎてもう涙も引っ込んでしまった。涙でかぴかぴになった顔面の皮膚を暖かいお湯で緩ませながら、長い溜息をつく。私は数日前に自分が口にした言葉を思い返していた。鉢屋に対して、「私は貴方のことを理解したい」そう告げた。彼も内心ではこのように思っているのだろうか。理解なんてできるはずがない、と。ちゃぷんと揺れるお湯に顔面を突っ込んで温まりながらも胸から込み上げる感情を必死に堪えていた。





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*101208