本来ならば、バレンタインというイベントごとは私にとっては全く無縁のものになるはずだった。去年も一昨年もその前も私にとってはバレンタインと書いて友チョコデーと読む、と納得付けていた、そんな日だ。けれど、今年は違う。義理でも本命とでもどちらでも解釈して構わないが、あげたくて仕方がなかった人達が近くにいる。しかもそのうちの四人は自分の部屋で同居しているのだ。張り切らないわけがない。けれど実は私はあまりお菓子関連の料理は得意でない。というかしたことがない。生きていくためには普通にご飯ものが作れればそれでいいと思っていた。なので、普段からお菓子作りを一つの趣味としている律子のところに教わりに行っている。チョコレート自体を溶かして固めるのものなら簡単だしすぐに作れそうなのだけれど、そこに一工夫をしたいという私のわがままを律子先生はきちんと聞きいれてくれて、ガトーショコラを作ることになった。もちろん、それを選んだ理由は先日不破が美味しそうに食べていたからだ。ふんわりとした彼の笑顔を思い出して、またあの表情が見たいなあと密かに思ったのだった。久々知はチョコレートよりも豆腐の方が喜びそうだが、さすがにバレンタインに豆腐は色気がないので我慢してもらう。尾浜や竹谷は好き嫌いがほとんどないのできっとあげたら食べてくれるだろう。 律子は見た目からしてもそうだがこういう女の子らしいこと、特に料理に関してはどこでそんなに覚えてきたのかと疑問に思うくらい詳しい。それは実のところ家庭環境がそうさせたのだと彼女自身は言っていたが、元々持っているセンスと料理を好んでいるというこの二つがそろっていたからこそ実現できた成果である。いい匂いの漂うオーブンの前でちらちらと焼き具合を確認していれば、それまで流し台を片づけていた律子がちょこちょこと隣にやってきた。 「どう、いい具合に焼けてる?」 「焼けてるよ。さすが律子先生」 彼女は目で焼け具合を確認して、一人でうんうんと頷いていた。ガトーショコラはたまに温度加減で黒く焼けすぎてしまうことがあるので注意してみないといけないらしい。オーブンに入れてからは放置しておけばいいのだと勝手に思っていた私にとっては意外だった。どこまでも気を配らないといけないのね、とぷくっと盛り上がりつつあるそれを見て軽く息を吐いた。 「ところで」 「なに」 「このガトーショコラ、誰にあげるの?」 「えっ」 興味深そうに彼女は私の顔を覗き込んでそう問うてきた。誰にあげるのって……それはもうあの四人なのだけどそれを律子には話してないため告げることはできない。私は誤魔化すようにええっと、と言葉に間を持たせた。 「バイト仲間だよ。ほら、鈴木くんとかいつもお世話になってるし」 「誰なの鈴木くんって。……まあ、答えなんて聞かなくてもわかりきってるんだけど。竹谷さん、でしょ」 バイト仲間の鈴木の分もきちんと用意してある。ので、それでいいかと思って口にしたら、学部も違う律子が鈴木のことを知るはずもなく厳しく突っ込まれた。嘘ではないです。事実です。彼女が後半に続けたことも事実ではあるのだが、私は素直に首を縦に振れずにいた。彼女はいまだに竹谷と私のことを勘違いしていている。一度、律子が私のマフラーを堂々と首に巻きつけて夕飯の買い物にいっていた竹谷を目撃して、話したことがあるのだ。その時に同棲という言葉を彼が使ったわけではないのだが、とりあえずお互いの物を貸し借りし部屋に行ったり来たりする仲―つまり恋人である―と見せつけられたも同然の出会い方をしたのだった。 人の恋路は誰にだって格好の話の話題。今までは彼女はそんなに押しの強い女の子ではないので、へらり、とした笑い一つで誤魔化し続けていた。律子も律子で何か理由があるのだろうか、複雑な関係なのだろうか、とはっきりしない私の態度をそう解釈していた。けど、今回ばかりはこのまま引き下がってくれるようなあっさりとした態度ではない。そりゃあ、去年までバレンタインに市販のチョコレートを女友達に配っているだけの女がいきなり手作りチョコを作りたいから教えて、とくれば聞きたくなるのもやまやまだろう。 「当たらずしも遠からず」 「……はっきりしないよねえ。付き合ってるわけでもないし、恋人でもない、関係なんて。というかから恋バナとか聞いたことないしな。なんかあっても隠してる。私はもっとそんな話をとしたいんだけど」 「苦手なんだって、そういうの。恥ずかしいから」 加えて、そのネタになるような話がずっとなかったということもその一因である。彼氏がいなくても平気で生きていけるような二次元的に満たされた生活をしていたのだ。現実に、人を好きになったことがないわけではない。けれど、どの恋も付き合うまでには至らなかった。自分がいまいち積極的になれないせいもあるのかもしれない。こればっかりは巡り合わせだとも思う。それに、今は恋愛よりも彼らとの与えられた限りのある不思議な生活を満喫したい、それだけで頭がいっぱいなのだ。 「それよりも!私は律子の方が気になる。……それは、誰にあげるのかな?」 彼女は、自分用にガトーショコラではなく生チョコを作っていた。ココアパウダーを仕上げに振りかけているときに味見させてもらったが、とろりと舌の上で滑らかに溶けて言うまでもなくおいしかった。私が来る前から作り始めていたそうで、焼いている間にラッピングを施していた。沢山分けられたその中に、一つだけ明らかに他と気合が異なる違うものがあるのにも私は気が付いていた。なんていうのか大きさといい、ラッピングといい、他とは違うのだ。 「バイト先の子」 「それにしては、他と仕様が違うと思うんだけど」 「私も前向きに歩きだしてるってことだよ。と違ってね」 年末に彼氏と別れたばかりの律子にも新たな恋が訪れているようだ。あの時は、やはり自分から別れを言いだしたことに罪悪感を感じていたのか、すっぱり綺麗に別れたはずだがその表情は浮かなかった。まだそこに迷いがあったように感じていた。だから、その新しい動きを私は積極的に応援する。最後に付加えられた言葉は余計だったが、よかった、と聞き取れない程度の声で呟いて盛大に彼女の肩を叩いた。景気づけだ。いきなりの私の行動に彼女は顔を一瞬歪めたが、すぐにくすぐったそうに微笑んだ。 「も、頑張って。バレンタインが一つのきっかけになるといいね」 「うん、そこそこ、がんばる」 彼女の思惑が私の本心とずれていることに苦い笑いを浮かべながらも頷いた。全部で六人に渡そうとしている。不破、尾浜、竹谷、久々知、鈴木、そしてもう一人。渡せるかどうかは不明だけれど、きっと一生に一度あるかないかの機会だ。果たして、これらのガトーショコラはきちんと本来渡そうとしている相手に届くのだろうか。わくわくと同時に不安は募った。 |