*竹谷視点

 バイト先のレストランは思ったよりも肉体労働だった。沢山のグラスや食器を一度に持ち上げて落とさない様に運ぶのはかなり筋肉を使う。竹谷自身は元々身を武器にして戦い抜くのがむしろ本業である忍者という職についていたため、体力には自信がある。これしきでへこたれていたら忍者なんて勤まるわけがない。しかし、この職業をどうみても自分よりも年下の女性―高校生でアルバイトに入る子もこの中にはいるため―が行っているのは不思議だった。あの細い腕にどのような力があるのだろう、と疑問に思って仕方がない。ただ、自分と同じくこの場所で忙しく働いているはそれなりに頑丈な腕と足を持っているようだけれど。

 二十四時間営業といえども深夜に近づけば客足は減る。仕事帰りのOLや、大学生と思われる髪色の派手な若者がぽつりぽつりと見受けられる中、少しの暇を見つけてスタッフルームで彼女に声をかけた。ここのところあまり顔色が優れない。そして何かにつけて考え事をする時間が増えた。バイト中でもぽつりと空いた時間にぼうっとしている姿をよく見かける。一応それなりに周りに気を配ってはいるらしく、近づいてぽんと肩を叩く前に竹谷の存在に気がついて振り向く。そしてどうしたの、と不思議そうな表情で問いかけてくるのだ。だが、いくらそうやって装おうとも疲れが溜まっているのは一目瞭然だった。

「お疲れだな」
「ああ、まあ、ね。でも、明後日は休みだし」

 笑顔を貼りつけながら、がんばりますよ、と軽く拳を握ってみせた。あまり疲れた、等という言葉を彼女は自分たちに言いたがらない。屁理屈や軽口を言い合う仲ではあるのに、そういう肝心のところは隠したがるのだ。竹谷はくしゃり、と彼女の前髪辺りを緩やかに撫でた。なんとなく、彼女のことは構ってやりたくなる。庇護欲にかられてしまうのだ。そう感じ始めたのは何時の頃だろうか。こちらの世界に来たばかりの時は敵対心が剥き出しだった。いつの間にかそれが和らぎ始め、彼女のペースに染まっていった。この世界に卑しくも自分を陥れる何かが存在しないと徐々に分かり始めてからであったが。この庇護欲が好きという感情に繋がるのか否かといえばそれは別物であろうが、かといって全否定できるわけでもない。ほんのりと芽生え始めていたものではあるが、周りからの間接的な影響もあり、段々と認めるようになっていた。自分はを好いている。紛れもない事実だった。ただ、好きという感情にも色々あって、確かに恋愛感情ではあるし、彼女を欲しいとは思う。けれどその上にまた別の抑える膜みたいなものがあり、今、自分の感情は上手くそこに乗っかっていた。守ることで満たされる感情、とでもいうのだろうか。傍にいて、共に一喜一憂できることが嬉しかった。

 久々知の言葉も脳内にしっかりと焼き付いている。叶うことのない感情だ。溢れだしそうになる想いに蓋をしているのは彼の言葉と自分のそれへの理解かもしれなかった。強がって見せるも晴れない表情をしている彼女の額をぴん、と人差指で弾く。彼女は表情を一変させた。痛い、と小さく呟いてこちらを睨みつける。

「何すんの」
「辛気臭い顔してるから。お客さんは笑顔でお出迎え。これ接客の常識だろ」
「ちぇ……真実だから言い返せない」
「言い返さなくていいんだって。ほら、あと一時間、がんばろうぜ」

 そこまで強く弾いたわけではないけれど、右手で額を抑えながらは恨みがましい目を向けた。しかし、すぐさまコールを鳴らされ慌てて接客に向かう。先ほどよりも幾分か表情に笑顔が戻っており、竹谷はほっと一息ついた。自分もさすがに肩が堅くなっている。ごりん、と一周首を回しぱんぱんと顔を叩いて出来上がった料理を運びに調理場へと足を向けた。





 日付が変わってもう二時間が経った。ちら、と時計に視線を寄せて、接客がひと段落するまでの少しの時間を待った。代わりに入る大学生の男子がやってきたので、すれ違いざまに声を掛け、ロッカールームへ急いだ。さすがに六連勤が終了となると解放感に満たされる。竹谷はもう一つ別所で掛け持ちのバイトもしているのだ。朝から昼までそちらで働き、夕方から夜中までファミレスという多忙な一日も数日程度埋存在していた。キイ、と音が鳴る調子の悪いロッカーから着替えを取り出していると、不意にドアが開いた。鈴木だった。

「お疲れ様です」
「お疲れ」

 一応、年齢としては同い年だとしてもバイトでは先輩後輩関係にあるので敬語を使っている。が、内心竹谷は鈴木に対していい印象を抱いていなかった。どうしても良好な関係を築けないのだ。周りの視線があればそれなりに表面上は仲良く付き合えるが、二人きりとなるとどちらともなく冷たい空気が辺りを包み込んでしまう。その原因としてはもちろん彼女――の存在が外せない。

 明確に尋ねたことがあるけではないが、恐らく彼はのことを好いているはずだ。突然現れた自分とが仲睦まじく会話しているのだから、敵視されるのも理解できる。ただし、それならば久々知だって同じくとはそれなりに会話をするはず。どうして自分だけ目の敵にされるのか、それが竹谷には納得できなかった。当然、向こうが竹谷を敵対視するのであれば、自分もおのずと鈴木という存在を気に食わなく思い始める。売られた喧嘩は買うものだ。そして、喧嘩した後は仲直り。それが男くさい竹谷の友情を保っていく秘訣でもあったが、直接ぶつかり合うことがないため、冷戦状態が続いているのだ。根本的にはっきりしない男は苦手なのである。反対側のロッカーから布が擦れる音が聞こえた。鈴木が着替え始めたのだろうということを察して、無言で手の動きを速めた。さっさと帰ろう。ここに長いこと居合わせても気まずい時間が続くだけだ。

 けれども、出ようとした時に不意に声を掛けられた。

「お前、どう思ってんの?」

 話の切り出し方としてこれほど曖昧なものはないが、竹谷にはそれが誰を指しているのかすぐにわかった。もちろん、彼女のことだ。冷たい声色ではあったが淀むことなく、何がですか、と静かに問い返した。

「彼女と親戚って聞いたけど。おかしくないか、それ。なんで一緒に暮らしてるわけ」

 そういえば、彼に目の敵にされるようになったのはと同居していることがばれてからのことだったように今更思い返す。親戚―とその点に一瞬怪訝としたが、に直接問いつめたに違いない。上手く誤魔化そうとしたのだろう。この世界の倫理感はよくわからないけど、親戚関係においては少なくとも全く可笑しいわけではないらしい。どこか納得いかないような視線を目の前の男は訴えかけれているが、彼女が全く通らないいい訳を使うはずがないとわかっていたので当然竹谷も白を切った。

「人の勝手じゃないですか。俺も本人も納得してんだから干渉される筋合いはないです。それに身内同士ですよ。なんの心配してるんだか、知りませんけど」
ちゃんは身内のように思っていたとしても、お前は違うだろ」
「……どう意味ですか」

 まさか、一端の忍であるはずの自分がそう簡単に内情を悟られてしまうのか。それもただの一般人に。鈴木の目を見返せば、彼は酷く憤慨した様な表情をしていた。

「はっきりしないならばそれはそれでいい。俺もそっちの方が好都合だし。だけど、身内であることを利用して姑息な手を使われるのは気に食わない」

 きっぱりと彼は言い切った。行動を起こしかねている竹谷を見越してその上で好きならば正々堂々と戦いたいと言う意思表示であった。試合じゃあるまいし、と鈴木を見て竹谷は軽く苦笑する。けれど、こそこそ影で睨み合うよりもこちらの方がより好ましい。もし、彼が自分たちの時代にいたなら、肩を並べて学園で生活していたならきっといい好敵手になるとその時竹谷は思った。嫌悪感の裏側を知る。彼は自分とよく似ているのだ。似すぎて、気に触る。こういうこともあるのだなあと竹谷は一人納得した。ただ、が好きかと問われれば、竹谷は否、と答えた。見込みのない恋に溺れることほど醜いことはない。いつまで続くかわからないこの不思議な状態において、彼女を少しでも支えることができたらそれだけでいいのだ、と自分に言い聞かせる。

を俺が自ら取ることはあり得ません。だから、ほっといてください」

 きっぱりと竹谷が突っぱねたその時、とんとんとんと素早いリズムでドアがノックされた。緊迫した空気がぱちんと弾けて緩んだ。はい、と鈴木が返事をする。ドアの目の前に立っていたのは、だった。彼女は鈴木の顔を確認するとほっとしたように息をついた。

「よかった、学校じゃ渡せないと思ってたから」
「これって?」
「明日、バレンタインでしょ。この間の週末も結局映画奢ってもらったし、いつものお礼も含めて」
「……ありがとな」

 嬉しそうに微笑んでいる彼の表情を見て、内心竹谷がけっと毒づいたのは言うまでもない。バレンタインという聞いた事のない名前に疑問を持ちながらも、それよりも気にかかる言葉が耳に入り込んだ。この間の週末は、確か彼女が珍しく着飾って出かけていったその日だ。もしかして、その相手というのは今目の前にいるこの人だったのだろうか。気に入らない、と正直に竹谷は思った。


「あ、ハチのもちゃんとあるから」
「そうじゃなくて。……お前、コイツと付き合ってんの」
「は?」

 ぽかん、と軽くは口を開いた。しばし無言のまま竹谷とは見つめ合う。けれども彼女は頬を紅潮させるどころか、可笑しそうにくつくつと肩を震えさせ始めた。

「何を言い出すかと思えば。鈴木くんはいい友達だよ」

 のその言葉にひくり、と鈴木の口元が引き攣ったのをもちろん竹谷は見咎めた。いい気味だという感情が生まれると同時に、ほっと安心したのが自分でもわかった。ふと我に返って複雑な気持ちが込み上げてくる。あの時は尾浜にも関心など無い、と突っぱねていたのにやはり心のどこかでは気になっていたようだ。

(本格的にやばいかもしれない)

 守り通せればいい。自分たちのいざこざからなるべく遠ざけることができたらいい。それでいいではないか。言い聞かせるように脳内で反復する。自分が彼女の恋路に関して干渉してなんの得があるのだろう。いつかは元の世界に返る身分であるのに、分をわきまえないとずるずるとこのまま自分の欲に引きこまれてしまいそうだった。感情の操作は忍にとって重要なものだ。どれだけ本心は異なるとなっても、現状に一番丁度いいように抑えることはむしろ得意としていなければならないものであろう。抑えきれる自信はある。まだ大丈夫。だが、思っていたよりも心情に負担が大きくのしかかりそうだった。への気持ちは、自分の中で段々と膨らんできているように感じる。ひやり、と焦りすら感じた。久々知の警告に対して大丈夫だと自負していたことが遠い過去の様だ。口に手を当てて、考え込んでいると控えめな声で名前を呼ばれた。

「ハチ?」

 くい、と裾をひかれる。隣で鈴木が何か言いたそうに口をもごもごさせているが、は気がついていないようだった。竹谷は下から覗きこまれて、はっとした。瞑想の中に嵌り込んでしまっていた。どことなく眠そうにとろんとした瞼をしているを見て、何、と訊き返した。

「早く帰ろ。もう夜遅いし」

 ああ、と、軽く頷いてから半開きになっていたロッカーをパタンと閉めた。それと同時に今までの思考にも蓋をした。考えなくてもいいことだ。このまま、今のままを保っていければそれでいいのだ。しっかりとした網目のマフラーを首に巻きつけながら先を歩く彼女の後を追った。鈴木が微妙な表情でまた二人の姿を追っているのを背中で感じながら、竹谷は寒々とした空気の中に飛び込んでいった。まだ、大丈夫と何度も何度も頭の中で繰り返しながら、帰路を彼女と二人で歩いた。





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*101126 鈴木くん嫉妬深すぎでしょうか。不自然な男子になってまう。