*不破視点 どの時代にあっても、書庫の独特の匂いは変わらない。そう不破は感じていた。ゲームに引き込まれて休日は専らテレビの前を占領する竹谷とは異なり、不破は来る日も来る日も時間を見つけては図書館に通っていた。学園時代は図書委員会に所属していた所以もあり、人一倍物に関する関心が強いのだろう、と自覚していたがこちらの世界に来てまで通い詰めるとは。当初はそんなこと思いつきもしなかった。手掛かりはあるだけ探した、と一蹴した久々知の言葉にも、手掛かりを見つけるために行くわけじゃないから、と持ち前のふわりとした笑顔で答える。久々知は軽く呆れたように不破を見やり、その日以降、図書館から足が遠のいていた彼もまた不破に触発されたように再びそこへ訪れるようになった。 読書は良い、と不破より一つ年上の無口な先輩が口にしていたのを印象深く覚えている。普段、あまり言葉を交わすことが少ないからか、彼の一言には重みがあった。その彼の言葉が今になってふっと蘇ったのは果たして偶然だろうか。確かに、読書はいい。本からしぼりとることができる情報は膨大であるし、なにより暇つぶしになる。活字に目通していれば、苛立った感情さえも段々と落ち着いていくことがある。様々な年齢の人間が行きかうこの図書館の中で本に目を通す時間がなにより不破の心を安定させていた。紙という媒体や形式は異なろうとも、読む、という行為はどの時代も共通に存在した。現代に慣れるためにも読書はかなり力になっている。現代小説には自分の知らないこの時代の日常生活や価値観について登場人物の内情を含みつつ知ることができた。熱心に読みふけっているとすぐさま時が経ってしまうのもよくあることだ。 「そろそろ帰ろうか」 久々知が不破の背後から話しかける。手には一冊の分厚い法律と書かれた本が収まっていた。ここのところ彼は学術書を頻繁に探し出しては読んでいる。それは彼が徹底的にこの図書館から過去へ帰る方法に関する書物を探し、見つからなかった結果を表している。しかし、学術書よりも純文学を好む不破からしてみれば彼のその選択は奇妙でしかない。さすがは久々知だ、と苦笑いを見せながらパタンと本を閉じた。 「そうだね。今日、ちゃんはバイトがないみたいだし、あまり遅いと電話がかかってきそうだ」 「かなりありうる。そうすると帰りにスーパー寄れ、と煩いからな。さっさと帰ろうか」 「うん」 彼女の台詞だけ声のトーンを幾分か上げて、久々知はしかめ面をしながら真似をした。しかしその朗らかな会話は長くは続かなかった。小説がずらりと積み重なっているこのコーナーを出ようとしたところで、ふ、と久々知の気配が変わった。 「雷蔵、ちょっと」 久々知が神妙な表情で不破を呼びとめた。何気ない純文学コーナーの隅に置かれてある、小さな棚の上から三段目の場所に彼の視線は釘づけであった。元々大きな目が驚愕により更に大きく見開かれている。不破は慌てて久々知の視線の後を追った。そして、何故彼が興味を示したのか分かった。 「山陰の草」 小さな声で久々知はその本の背表紙に書かれてあった文字を読み上げた。普通の人ならその題名は一見なんてことはない、ただの小説のタイトルに聞こえるだろう。けれど、自分たちには山陰とそして草という用語に聞き覚えがあった。山陰はその名の通り地名であるが、草とは隠語で忍者のことを指す。それに気がついていた久々知は咄嗟に文学コーナーであろうとも、創作の本が置かれる場であろうとも、足を止めたのである。 不破はそれを手に取った。随分真新しい本ではあったが、ぱらぱらと捲り中身を読めばどうもこの時代の文体とは思えなかった。内容は完全なる文学である。一人称を“私”と称した主人公の目線のもの三人称で”彼・彼女”という目線で物語が語り継がれているものもあった。”彼・彼女”という言い回しは英語という他の言語からもたらされた本来日本にはなかった表現だといわれているが、その点を除けば長年親しんできた自分たちの知っている文章にそっくりなのである。言い回しや表現、どれをとっても滲み出る過去の香りに疑念を隠せなかった。 「どういうことだろう」 捲れば捲るほど、不思議な感情が込み上がってくる。過去の文庫が再出版されたものだろうかと思うが、どこにもその年号を表す文字はなかった。 「これは初版のようだな」 「ということは、最近出版されたってことか。まだまだ綺麗だもんね」 「だろうな。俺も結構この辺りの本は読んだが、見たことない」 しげしげと久々知は隣からその本を覗きこんだ。内容は、短編物語を寄せ集めたもので一つ一つテーマが異なっている。けれど、一致するのはどれもが時代ものであるということ。農民の恋から一つの村が巻き込まれた戦の話、戦国を駆け抜けた大名の武勇伝。現代とは価値観の異なる風景も異なる各時代を様々な視点から表現している本であった。第一項目に不破はさらっと目を通したが、描写に酷く生々しさを感じた。自分たちが体験してきた過去の時代だからこそわかる現実味が存在するのだ。その中で、一つ、草と書かれた題を見つける。何気なく不破はそのページを開いた。本のタイトルにもなっている、山陰の草は短編集の中でも一番最後に位置していた。目を通してみると、それは忍を主人公にした物語であった。けれど、それまでのお話とはどこか趣向が異なる。一人称から三人称へ代わり、決して人名を指す様な言葉は使われない。仇名となる名かもしくは彼、彼女という代名詞を頑なに使用していた。 「これは……」 不破は緊張で口がからからに乾いてしまっていた。有り得ないことがそこに書き込まれていたからだ。熱心に読み込んでいくうちに、嫌でも気がついた。久々知も同様であろう、息を飲む音がする。 「これは、僕たちの物語じゃないか」 不破がそう勘繰ったのは他でもない、登場人物が五人、忍であるということ、同じ学校で学びあったということ、そして、見知らぬ世界にトリップしてしまったということ。これほどの偶然が重なってしまうことがあるのだろうか。じっと連なった文字に目を通した。 彼らは時を超えた。何が原因かはわからないまま、雷雨に飲みこまれるように時代を掛けた。ある者は血に濡れ、ある者は足に打ち身を負い、ある者は汚れた刀を手にしていた。先の二人は驚いたように彼らを見た。よく状況が掴めていないのか、互いに瞬きをしあって目を見開いている。そこへ、気の抜けた女性の声が場を壊すように割って入った。「ただいま」と呟いたその彼女はこの部屋のぬしだ。即座に刀を手にした狐面の男は場の状況を悟ると、彼女に覆いかぶさるように襲いかかった―。 そこまで目を通したところで、久々知が勢いよくその本を閉じた。小刻みにその手が震えている。自分たちがこちらの世界へ来た当初のことが、如実に描写されていた。まるでその場に作者自身がいたかのようだ。嫌な汗が頬を伝う。 「どうしてこんなものがあるんだ」 久々知はできる限りの平素を装って、不破の肩にぽんと手を置いた。 「冷静になれ雷蔵。この本が俺たちの今現在体験している物語がそのまま書かれていたとしたら、どう取り扱うべきかが一番の問題だ」 「……どう取り扱うか」 「そうだ。このまま読み進めていってしまったら俺達の未来をも知ってしまうことにならないか」 不破の作者への不安感が少し和らいだ。別の問題がその危機感を上回っていたからだ。確かに、久々知のいうようにこの本は短編とはいえ、少なくとも彼らのここでの生活を描写するには十分な内容量がある。過去に起こったことならまだいいが、その中には未来への記述もあるのではないだろうか、と久々知は懸念するのだ。未来を知りたい、という欲求は彼の中にはなかった。そんなものを恐ろしくてうかつに手を付けるものではない、と久々知は思っているようだ。 「読み進めることは得策ではない。かといってここに置いておくわけにもいかない。俺は非常に気味が悪いからな。……だとしたら」 「持って帰るしかないということだね」 しかし、この本の中には本来なら自分が知ってはいけないことが沢山盛り込まれているであろうと不破も久々知同様の意見だった。安易に決断するべきではない。静かにそれを長机の上に置いた。 「著者名は?」 「具合よく霞んで見えないんだ。意図的に水を含ませて滲ませているのかもしれない」 「……あまりにも思わせぶりやしないか」 恐らくこの本に自分たちが未来にやってきた要因となる文書を含んでいるということは決定的であろう。素性を明かす名前さえ書かれていないが、事細かにされた描写からこの本の中のキャラクターが自分たちであるということは自意識過剰でなくとも気がつく。心臓の裏からひんやりとした寒気が伝う、未知のものに出会ったときの恐ろしさと言えばいいのか初めて体験する得体のしれない恐怖が自分たちの間に立ち込めていた。 「とにかく、図書を一時的にでも借りるのならばが必要だ。彼女しかカードを保持していないから。呼ぶか」 「けど、ことの詳細をちゃんや他の皆に報告すべきだろうか?」 自分としてはこれいじょうに心配や恐怖感を与えたくないといった心持でいったのだが、しばかく沈黙を有したあと、久々知はまったく異なった見解を述べた。 「本来はそうすべきだろうが、今回は事が大きすぎる。下手をするとただでさえ危うい信頼関係がこなごなに崩れてしまうだろう。どこまでこの小説の中に描かれているのかは知らないが、戻った際に相手側に有力になる情報が盛り込まれていたらどうする」 「それは、僕と竹谷のことを言ってるの?」 「一番の懸念はそこだろ。あとは、残された人も俺はいまいち信用できていない」 「……勘ちゃん?」 ああ、と久々知は深く頷いた。不破にしてみれば意外なことこの上なかった。二人は、学級も部屋も同室で最もお互いのことを知りつくしているはずだ。その上、二人とも自由業でどこの城にも所属していない。城同士の因縁には巻き込まれないはず、と常識的には考えられる。けれど、そういうところがまだまだ自分の甘いところなんだろう。久々知の真剣な瞳を見て、不破は自分の考えを改めた。 「雷蔵と三郎と一緒だよ。俺は俺で彼のことを知っているからこそ恐ろしいと思う。最初に彼が訪れたときのことを覚えているか」 「もちろん。意外だったけど、前向きと言うか逆境に強い勘ちゃんらしいというか」 「その点が可笑しいんだ。確かに勘ちゃんは前向きな性格をしているし適応能力も高い。けれどそれはあくまで自分自身の安全保証がなされて、それからだろ。あの時の落ち着き払った態度は逆に可笑しい。雷蔵ほど竹谷との城に因縁がなかったとしても、あれだけ不可解な事が起こっているのにすぐさま真っ向からそれを信じ、周りを疑わず、受け入れられるだろうか。俺にはできなかった。雷蔵もできなかった。だろ?」 「……うん」 「内心がどうかは俺もわからない。けれど、あの勘ちゃんが疑うことなくすんなりと普通であればまやかしだと思われるような事実を受け止めることができると思うか。だとしたら何かしら表面上、適応せざるを得なかった理由があったのかもしれないと俺は考える」 つまり―久々知が何を言わんとしているのか、不破にはそれが読めた。難解な言い方をしているが、結局のところ尾浜のあの安易な現代への受け入れ方に久々知は一抹の懸念を抱いているのだ。忍ならまず疑うべし。当初、不破は尾浜らしさ―確かに昔の彼は新しいことに関心を示すことが多かったので―だとそれに納得さえしていた。変わっていないなあ、とそればかりだったが、彼が紛れもなく一端の忍者として活躍したという実績があるはずなのに、疑わずにいられようか。その動揺を隠し、相手を泳がせるというのも一つの手段である、が。賢明な久々知のようにそれにあやしさを抱く人物も必ず現れる。何か裏があるのではないか、と久々知が慎重になっているのも頷ける。だが、何故それを一応は尾浜と契約を結んでいるはずの不破に対して赤裸々に言うのだろうか。不破の疑問を見越したように、久々知は微笑を浮かべた。 「雷蔵が頷かなかったら、どちらにしてもこの内容は勘ちゃんに漏れるだろ。それを阻止したかったために賭けにでただけだから」 「数週間でも僕の城に雇われてる勘ちゃんを信用する確率の方が圧倒的に高いはずだ、って。僕が兵助の立場だったらそこが気がかりだけど」 「一応、言っておくが俺は何処の城にも所属はしていない。一度雷蔵とは刃を交えたことがあるが、あれは仕事の都合上。今は一切関係ない。つまり、今現在で雷蔵との利害関係は生まれないということだ」 二人の立場もあまり大差ないということか。尾浜でさえ契約が切れればどうなるかはわからない。今現状は自分たちの味方だと加算してもいいのかもしれないが、いつ、どこで、しかもその制約が効いていないこの場所で、どのように寝返られるかわからない。不破がそれだけのことを考えられるほどの間を一拍置いた後、ここからが本題だと言わんばかりに久々知は小さく息を吸って静かにけれどしっかりと告げた。 「その上での契約だ。この本に纏わる情報は一切漏らさないこと、そして、この本の続きを読もうとはけしてしないこと」 不破は一瞬迷う。久々知は頭がいい。下手をすれば、鉢屋よりも頭の回転は速いかもしれない。これも彼の口車なのだとしたら、安易な契約は不利益にしかなり兼ねない。だが、この本が今後の自分たちの行方を左右するのは明らかであった。もしこの存在を誰かが知ってしまったとしたら。そして、この本を開いてしまったら。何も書かれていなかったのならそれはそれでいい。だが、本当に久々知の言うように自分たちの未来について書かれてあったとしたらいまの衡平な関係は崩れ去ってしまうことが簡単に予測できる。決心したようにゆっくりと頷いた。けれど、と念を押すように付け足す。 「本の存在を漏らさないということは納得できるけど、続きを読むなというのは兵助も約束できないのではないかな。読む、という行為はあまりにも簡単だ。勝手に抜き取って燃やしてしまう方が話は早いと思う」 「……雷蔵、お前、一応図書委員だったんだろ」 簡単に書籍を燃やすなんてことを口にしてしまっていいのか、と久々知は問うてきた。なるほど、その観点からすれば一理あるだろう。重要な情報が掲載されている本だ。燃やしてしまうことも、図書館から盗みだしてしまうことも抵抗があって当たり前である。しかし。 「一つの巻物で国が滅びることがある。それを見たときに、この巻物がもしなかったらと思わなかったことがないとはさすがにぼくも言い切れなかったから。何より、信頼をきちんと保っていくことがこの状況下において最善だと思うんだ」 「それは俺も同意だな。……今から裏の山に行くか」 「ん」 二人はそれをこっそりと持ちだし、裏の大きな山元で燃やした。葉が抜け落ちて寒々とした山の斜面に隠れるように火を起こし、ぱちぱちとなる赤いそれを見つめていた。赤く、赤く、燃える火を久し振りに見詰めながら大きくため息をついた。本当にこの選択は正しかったのだろうか。大きなヒントを逃してしまった可能性もあったのだ。後に大きな後悔をしてしまいそうな気がする。けれど、不安を消すためにはこれが最善の策だと不破は自分に信じ込ませた。気味の悪さは相変わらず体中に残っている。一つ疑問に思うのは誰がこれを書いたのか。ただそれだけである。 |