*鉢屋視点


 日付を超えた静かな夜道を一人、鉢屋は駆けていた。現代服に身を包みながら民家の屋根をたん、と蹴っていくその姿は少々滑稽だ。だが、早く帰らねばきっとあの人は眠らないだろう。自分が帰るのを静かに待ってくれている。止めてほしいと頼んでも、待ってるわけじゃないよと軽く受け流すだけだった。でも彼が自分が帰るまで寝ないというのは明白だ。そこまで考えて、鉢屋はまた一気に加速する。大きなマンションの前にふわりと降り立った。ここは鉄次の家だ。

「おかえり、卓也」

 玄関をくぐると、彼はやんわりとした笑みで疲れた表情の鉢屋を迎え入れた。きっちりとしたバーテンダーの服を脱ぎ、カジュアルな部屋着を着た鉄次は、普段より一層若く見えた。そんな彼に苦笑いのような曖昧な表情を見せながら、ただいま、と小さく呟いて部屋に入った。鉢屋は彼に拾われていた。実際に鉢屋を最初に拾ったのは彼ではないのだが、現在の自分の生活水準が保たれているのは彼のお陰であった。なにより、自分が何処から来たかそんな詳しい状況を何一つ聞かないで、部屋に置いてくれる鉄次の親切はとてもありがたかった。長年の独り暮らしのせいか、男二人でも困ることはなく、鉢屋も環境適応能力はそれなりに高い方だったのですぐさま彼の生活に慣れた。彼は鉢屋が漫画のキャラクターであることを知らない。欠けている現代知識になんとなくおかしいと感じてはいるようであるが、改めて問いただそうとはしなかった。

 彼の家はどこまでも静かだ。必要最低限の家電や、机、ソファが置いてあるだけでその他に目立った彼個人の私物は置かれていない。ここが共有空間であるリビングであるから自然とそうなってしまうのかもしれない。といっても当初、純和風の世界から次元を超えてやってきた鉢屋にとっては見慣れぬものが多く、困惑でいっぱいだった。今になってそれぞれがどのような役割を果たしているのかを知ると、途端にこの部屋の物の無さに空虚感を感じた。だが、男というのは大抵そのようなものだろう。自分が一人で暮らしていた時はこれよりももっと所持品は少なかった。

「今日、夢菜ちゃんと一緒にいらした彼女は旧知の人なのか」

 黒いソファに腰かけ焼酎に口を付けていた鉄次は、着替えてリビングに戻ってきた鉢屋にそうぽつりと話しかけた。会話をすることは珍しくない。彼はけして口うるさいわけではないのだが、おしゃべりをすることは苦ではないようで―でないと接客業なんて勤まらないとは思うが―たまに、なんとなく、鉢屋に対して話題を振る。鉢屋自身も彼との会話は情報源の一つとなるし、それに素直に応じていた。

「旧知っていうほど付き合いが長いわけじゃないですよ」
「お、そうなのか」

 片眉をあげて、意外そうに彼は言った。鉄次という人物はまだまだ鉢屋にとってよくわからない存在だ。何故自分のことをここまで無条件に受け入れてくれるのか。その真意は全く見えてこない。だが、鉢屋のプライベートなところにここまで彼が首を突っ込むのは初めてのことだ。良い意味で彼は鉢屋に対して無関心でいてくれた。だからこそ、この空間は居心地が良かったのだ。変な敵対心も疑心も持たずに彼とは暮らしていけた。そうとう訝しい顔をしていたのか、ちらりと自分の表情を目にとめた鉄次は口元に微笑みを浮かべた。

「いや、なんとなく彼女の視線は憧れっていうよりも心配で仕方がないって感じだったから」
「……そうでしたか」
「ああ」

 優しい鉄次の視線に耐えかねて、鉢屋はすぐさま話題を変えた。そんな暖かな眼差しには慣れていない。

「風呂入ってきます」
「ん、いってらっしゃい」

 ひらひら、と鉄次は軽く手を振って逃げるように浴槽に駆け込んだ鉢屋を見送った。





 風呂からあがると一足先に彼は寝ていた。真っ暗なリビングに入る。人気のないリビングは暖房器具も付いておらずしひんやりとしていたが、火照った体には丁度いい温度だった。ぱたん、とすっかり手に馴染んだ動作で冷蔵庫の扉を開ける。中から缶を取り出すとこれまた手馴れたようにプルタブの缶を開け、一口ごくりと飲み込んだ。ビール、と呼ばれるそれはこちらの世界に来て初めて口にした酒だった。喉越しのいいそれは、アルコール度数もそれほど高くなく、度数の強い酒でも酔うことなく飲めてしまう鉢屋にとってはまるでお茶の様なもの。それでもその苦みが気に入り、手に取るようになっていた。ごくごくと立ち飲みしながら、与えられている自室に入る。ベットと机、そして薄いテレビが並んでいるだけの殺風景な部屋だ。目が覚めるたびにこの部屋の様相を見て、気がめいる日々が続いている。どうしようもない焦燥を打ち消すようにぴっとテレビをつけてニュース番組を映し出した。テレビはこの時代の情勢を知るのに有効なものの一つであるので鉢屋はよくそれを見ていた。暇つぶしにもなる。ちらり、と視線を移した際に一人の女性アナウンサーの姿をとらえた。全くと言っていいほど似ていないのに、先ほどの彼女、の影が重なる。手にしたアルコールの缶をぐしゃりと潰した。数時間前の取りが脳内に浮かんだ。心臓を直接手で触られたような居心地の悪い感触が蘇った。

「私は鉢屋と親しくなりたい」

 真っ直ぐな目が自分を見ていた。ただそれだけのことだったのに、鉢屋の心は大きく揺さぶられた。簡素で飾り気のないその言葉と、軽く恐怖心が残っているが明らかに好意を持って自分と向き合いたい、という態度。真正面からそう押し切られるのは初めてのことではなかった。二度目、だ。

「弱い。私はそういうのに本当に弱い」

 鉢屋は自嘲気味な笑みを零した。見ず知らずの人間に何を自分は言っているのだと。尾浜に関わるなと念を押され、取引までされた彼女にどうして再び関係性を持つようなことをしているのだと、呆れて言葉も出てこなかった。自分でも自覚していることだ。親しくなりたいという率直な言葉は学園に入った当初、不破に言われた言葉。その時の彼の姿との姿が重なるなんて、嘘だろうと見間違いだろうと、そう何度も後から後悔した。けれど、根本的に自分はなにより自身を受け止めてくれる、親しくなりたいといってくれる、そういう自分自身を見てくれる相手に対して非道に成りきれないでいる。昔からだった。彼らがそうであったからこそ、六年という長いようで短い間、共に過ごすことができた。不破の鉢屋を包み込むような暖かさ、竹谷の鉢屋に真剣に掴みかかってくる真っ直ぐさ、久々知の鉢屋という人物を外面なしで捉える冷静さ、尾浜の鉢屋の真意を誰よりも深く読み取る聡明さ。そんな彼らだったから、夢のように楽しかったあの時期があったのだと、当時はそう信じていた。そして、性質の悪いことにその全てを少しずつ彼女は持っているように思えるということだ。この話をもしも尾浜にしたのなら、鼻で笑われるに違いない。絶対に自分が彼にこの考えを曝け出すことはないだろうが。段々と心の奥に芽生え始めた、羨望が目の当たりになった瞬間であった。

 気がつくと自分で自分の首を絞めるような行為を行ってしまっていた。最も、在所がばれてしまったのだからある程度あのように餌となるものを出して、繋ぎとめておかねばならない。彼女はいい意味で素直である。自分いとってはまた迷惑なことではあるが、「仲のいい五年生」に理想を抱いている。そんな彼女がわざわざ関係性を破壊してしまうような暴挙にでない―つまり、鉢屋の在所を不用心にも他人に話す―ことは明白だった。そこまで彼女も馬鹿ではないはずだ。

(利用できるものはなんでも利用する。そして、私は私の任務を成功させる)

 数年前の自分が決めた通りに、物事を運ばせるのだ。まだ遅くはない。沸き上がるなんともいえない微妙な感情を再確認したのちに心の奥底に押し込めた。この世界で出来ることはない。必死に元の世界に帰れるまで波風を立たせずにいることだけだ。ただ、この世界は鉢屋に優しくはなかった。行きとどいた平和な空間、日々の身の安全を少なくとも一般民衆においては警戒しなくてもいい、ゆるやかな流れを纏った緊張感のない時の流れ。それは、学園という加護のあったあの頃の生活に酷似しているとは言い切れないが、確実に似通った雰囲気を思い起こさせる。あの頃は実感がわかなかったが庇護されているという心のゆとりだ。それが命取りにならない様に。揺れ動く感情に蓋をするように目を閉じる。程よく利いた酔いがそのまま鉢屋を睡眠へと誘った。微かな寝息が辺りに響いた。





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*101120 上手く表現できない鉢屋の内情。