とりあえず先に夢菜を自宅へと送った。彼女は大学の近くのアパートに住んでいるため、私のアパートとも比較的距離が近い。幾度も訪れたことのある三階建てのアパートの二階まで卓也に夢菜を抱き上げて運んでもらい、鞄から無断で鍵を拝借すると中へと二人で入る。パンプスを脱がせて、皺にならないよう上衣もクローゼットにかけた。気持ちよさそうにすやすや眠りに落ちているので起こすこともせずそのままベットに押し込んだ。あとは彼女が朝起きたときになんとかするだろう。メモ書きを机の上において、鍵を閉め、その鍵をポストの中に収める作業までした後、私たちは再びタクシーへと戻った。しんとした車内で、そこまで一緒にやってもらった卓也―鉢屋であろう人物―に改めて礼を言った。 「ほんとに助かりました」 「いいえ、夢菜さんはうちのお店の常連さまですし。貴方一人ではここまで彼女を連れてあがれなかったでしょうから、大丈夫ですよ」 疲れた表情も見せずに、彼はそう愛想よく言った。本当にこの人が鉢屋なのだろうか。間近で見ても、変装用の仮面の跡が見えるわけでもないし、声色も鉢屋とはどこか違うような気がする。……やはり、只の他人の空似か。夢菜が敏感になっていただけなのだろうか。この世に自分と同じそっくりさんは三人は存在すると言う。創造上の利吉に良く似ている人間が一人くらいこの世界に存在してもなんらおかしくはないはずだ。だが、何かしらかまを掛けてみるのも悪くはないはずだ。もしも彼が鉢屋なら、私は重要な手掛かり―彼の居場所―を突き止めたことになる。 「単刀直入にお聞きしますが、貴方は鉢屋三郎という男を知っていますか」 「……知りませんけど」 普通に聞いたところで彼が素直に話すわけもない。彼は少しだけ考えるそぶりを見せて、口元には余裕の笑みを浮かべて答えた。 「ならいいんです。また今度、お店にお邪魔しますね。マスターにも来てくれって言われましたし。そうそう、知り合いに不破雷蔵っていう男の子がいるんですけど、彼は多分ああいう場所に来たことがないと思うので次回は誘ってみようかなあと思ってるんです。すごく素敵な人なんですよ」 私も負けじと笑顔を振りまいてみる。遠回りな脅し、これこそまさに某テニス漫画、魔王さまの戦略をそのまま頂いただけのシンプルなものだ。奥歯に物が挟まっている言い方をしているが、要約すると、さっさと面を剥がすんだな、さもなければお前の一番弱いところを連れ出すぞ、と言っているのである。さてどうでるか、と期待を込めて伺ったが、彼は案外しぶとかった。 「ああ、是非、連れてきてください。お客様が増えるのはうちとしても有難いことですので」 「……分かりました」 やはり、鉢屋ではないのか。そうなのか。それともこんな安っぽい脅しに鉢屋は乗らないだろうか。いやしかし、あれほど不破に対して警戒をしていたようにみえた、悲痛な表情を思い出す。ううん、と首を傾げながらも、すぐに私のアパートの壁が見えてきたので目の前の道路で止めてもらった。今日はここまでだ。しかし降り際に、何故か彼もいっしょに降りてくる。どうしたことだ、と彼の様子を見守っていると、バタンとタクシーのドアが閉められて、そのまま行ってしまった。本当にどうした。くるり、と私の方へ振り返ったその表情は先ほどまでとの笑顔と全く異なる、絶対零度の笑みだった。 「雷蔵を連れてきたら今度こそ命はないと思え」 ビンゴだった。利吉の変装した彼は、鉢屋三郎だった。しかし、喜べたのはその一瞬だけ。温厚な姿のバーテンダーから一変し、さっと瞬間的に私と彼の距離が零に近いほど縮まった。近すぎて焦点が合わず、何が起こったか理解できないほどだった。不信に思う暇もなく、ぐ、と喉を息が詰まるほど締め付けられる。ぞっとした恐怖が襲いかかったが無我夢中でこくこくと頷いたら、彼はにっこりと笑った。 「お前の馬鹿げた思考はお見通しだから。他の面子にも私の居場所をちらとでも匂わせたら、あいつらはすぐに付きとめてくる。そうなると、告げ口したお前がどうなるかもきちんとわかるよな?」 ぎりぎり、と聞こえないはずの音を感じた。痛くて苦しい。本格的に息ができなくなってしまった。涙目で私は鉢屋を必死な形相で睨んだ。ここで睨むような余裕があったことが不思議なくらいだが、なんとかして止めてほしくて自然と睨みつけるような表情になってしまっていたのだ。止めてくれ、とそう声をだそうにも絞めつけられた喉は音を発しないため、しゃべることができない。出来る限りの力を振り絞って首をずっと縦に振り続けた。何度も何度も鉢屋は問いかける。絶対か、と。言葉だけではなんの確証にもなりはしないのに、彼はしつこくそう言い続けてきた。やっと手を話してもらえたときは、私の両目からは苦しさに耐えかねてぼろぼろと涙が零れていた。せき込みながら、空気を肺に思いっきり入れた。 「……死ぬかと思った。馬鹿」 「馬鹿はこっちの台詞だ。私に対してあんな脅しをするとは、ほんといい度胸をしてるよ」 掠れた声ながらもできるだけ生きがってそう告げると、鉢屋は、は、と皮肉げに笑った。 「あんなとこまで嗅ぎつけてきやがって。お前から付き纏うな、私は関係ないと言ったんじゃなかったっけ。それともなに、今更、私に真実を話す気になったとか」 「真実は全て話したから。私が聞きたいのは、鉢屋のことだよ」 「……何を話せ、と?」 表情が消えた。彼にとってこの話はやはり地雷だったのだ。ぴくん、と更に空気が引き締まる。また喉を締め付けられそうで、いや、もっとむごい方法で殺されてしまいそうで、私は即座に彼を数センチの距離を取った。そんな防御は何の意味もなさないだろうけれど、恰好だけでもしておきたいというのが本音だ。 「よく考えたら、私は何故鉢屋がそれほどまでして帰りたいのか、知らないと思って。不公平でしょ。一方的に私に対して問いかけておきながら、自分のことは一切口にしないなんて」 「お前からの情報は何一つ得るものがなかった。教える筋合いはないだろう。それを言うなら、何故お前はそれほど私のことを気に掛ける。空想の世界の中の仲の良い私たちを好んでいたからか」 「それも一つの理由だけど。今更、私は鉢屋に四人と仲良くしろなんて望まないよ。ただ、好きだから気になるんだ」 さらりと口にした好きという二文字を聞いて、彼は目を軽く見開いた。虚を突かれた顔をしている。鉢屋三郎が好き、というその感情だけは今現在に置いて変わらない只一つの事実であった。これから未来にかけてその気持ちがずっと永遠にそのままであるという確証はできない。そんなこと恐らく人間として生きている人ならば誰にも出来やしない。人の心は移ろうものだ。だが、目の前の、生きた凶器である鉢屋の姿を見て、殺されかけて、喉を絞められて、脅されて。様々な人が嫌うであろう理由の根源を私に向けてされた。そのことに恐怖を感じてはいたが、それでも私は彼を嫌いにはならなかった。昔の鉢屋の面影を彼の言葉の隅々までに感じるからだ。先ほどのマスターの会話もそうだ。ただの殺人道具となしたであろう彼が、暖かい目で人から見られるであろうか。私は未だ彼の核になる部分に触れてすれないのではないのだろうか。だからこそ、嫌いになれるほど知り合えていない、とそういう考えに行きつく。もっと理解を。私はこれまでこちらの世界に来た彼らに対して自分の世界のことを押しつけざるを得ない状況下にいたが、今度は私が彼らの世界のことを彼らの今を怖がらずに、理想と違うからといって拒絶せずに理解していきたいとそう望むようになった。 「私は鉢屋と親しくなりたい。せっかく、大好きな貴方がこっちの世界に来てくれたんだ。だから、私はもっと鉢屋を知りたい。創造の世界の貴方より、本物の生きてる貴方の方がどれだけ酷くても魅力的」 恐怖を感じながらも、無理やりに笑みを浮かべてはっきりと私はそう告げた。鉢屋は口を開かなかった。だが彼の顔を見るだけで、馬鹿じゃねえの、と訴えているのがわかる。ややあって、鉢屋は沈黙を打ち破るかのようにそっと唇を動かした。寒さと乾燥でその唇は少し荒れている。 「私がお前を信用することはけして有り得ない。なにより、私のことをお前に話すわけがない。天地がひっくりかえってもそんなことは起きない」 「結果、話さないままでもいいよ。一緒に過ごす時間がほしい」 「私のことがそんなに好きなのか」 「うん」 「殺されるかもしれないのに?」 「……それは勘弁してほしい」 殺されるのは、嫌だ。当り前だ。人間誰しも殺されるのは嫌だ。死んだらそこで終わりなのだから。でも関わりたい、とそう願う。何を甘いことを、と一蹴されるのは目に見えていたからだ。けれど、矛盾した二つの感情をぶつけられて、彼は口の端を歪めた。 「我儘すぎだろ」 くつり、と喉が鳴った。その不意に見せたぞくり、と背筋が凍ることのない笑みは一体だれのことを思い出しての笑みなのだろうか。少なくとも、それは私に向けたものではなかった。鉢屋、と名前を呼んだ。迷惑だろうか、と続けてそう呟く。何を、と問い返される。 「迷惑だとわかった上で言ったんだろ。今更尻込みして、さっきの言葉は勢いなのか」 「勢いじゃない」 なら、してもいいということか。分かりにくい返答を返す鉢屋に向けて、期待の視線を向けた。それに答えるかのようににやり、と厭らしい表情で彼は笑い、ただし、と念を打つように忠告をした。 「四人に私の在所がばれないように、内密に。それができなければ無理」 「……それってほとんど無理だと言ってるようなものだよね」 「ああ、そうだな」 忍者である彼らを連れずに歩かないことがここ最近は全くない。鋭い嗅覚と、なにより鉢屋という人物をよく知っている彼らにとって私が安易に彼に近づけば見つけ出すのは容易いはずだ。隠密行動を常とし、嘘か真か彼らの感覚で判断する。そんなプロに対して欺きが通ずるわけがない。 「文明の利器がこちらの世界にはあるだろ」 彼はそう言ってズボンのポケットから黒いものを取り出した。 「あ、携帯」 「私は一応使いこなせるから。連絡が取りたければそれで。バーに来たいのなら、今日みたいに、都合を付けて怪しまれない様に。頻度は控えて」 「了解!やった!」 「……なにそんなに喜んでんの」 嬉しさが勝りそれまでの雰囲気を吹き飛ばすように勢いよく返事をした。呆れたような視線を投げかけられる。見下されようがなんだろうが、鉢屋のアドレスを手に入れることができたなんて今までの状況では考えられないことだ。快挙だ。気が変わらないうちにそそくさとアドレスを交換して―もちろん、ばれない様に卓也という名前で登録した―携帯をポケットにおさめた。 |