こぽこぽとした水音がするなか、ぱきり、と堅いものが割れるようなよい音がした。つん、と病院独特の消毒液の香りがほのかにする研究室の中で、私は手土産のしょうゆ煎餅にかじりついていた。言わずもなが、堀内の研究室である。個室であるそこは薬品類が収まっていると同時に冷蔵庫もこっそり設備されている。お茶、お菓子、コーヒーメーカーなんでもありだ。なのでよくゼミ生の溜まり場になっているという噂を聞くが、今日ばかりはこの部屋には私と堀内と……そしてなぜか夢菜の三人だけがテーブルを囲んで煎餅に噛り付いているという状況だった。そもそも何故私がここにいるかというと、逐一堀内に報告せよ、という命令が下されていたからである。彼は一大人としての良識のある存在だし、私自身、彼らのことを一人で抱え込むには無理があった。雑談程度のものであるが、話を聞いてもらえるだけマシといったものだ。テストが忙しかったのでこれが初めてのこととなるのだが、その報告をしにいった際に何故か夢菜は先に別件でここにいたのである。

 学部も違うはずなのに、何故か、と問いかければなんてことはない、さらりと夢菜は答えた。

「堀内はうちの親戚やもん」
「えっうそ。世間って狭い!じゃあ、夢菜は先生がオタクだっていうことも知ってるの?」
「もちろん知っとる。コイツの家、ガンプラしか置いてないんやで。一発でわかるわ」
「そんな呆れた物言いしなくても。二人とも似たようなもんでしょうが」
「私の部屋にはおおっぴらにオタクグッツは置いてません」
「うちもコスプレ服は専用のクローゼットがあるんや。隠れオタなめんな」

 二人の隠れオタクにびしりと指を突き立てられながらも、年上の―つまるところそれだけオタクとして年季のある―彼は表情を乱すことなく、ぱり、と自らも煎餅に噛り付く。ちなみにこれは彼が研究会で訪れたという九州のとある県の名産品である。香ばしいしょうゆの味とかおりがなんとも言えない。嘆くべきはここに緑茶がないということだろう。コーヒーにお煎餅とか少しばかりミスマッチ感があるのを否めない。

「それで、鉢屋くんは今後どうするって?」

 それでも、彼は話だけは真面目に聞いてくれているようで、先ほどまで掻い摘んで説明していた今の成り行きの続きを促してくる。夢菜も、久々知のことがあってから関係者の立派な一員となっていたので、興味津津だ。いや、彼女の場合は色んな意味で関心があるのだろうが。この間の久々知コスプレ生写真は素晴らしい出来具合であった。

「どうするのかなあ。でももうこれ以上私と接触はしないだろう、と思うよ。二回ほど経験して全く収入がなかったんだから、そもそも私に帰る術を聞くなんて時間の無駄も甚だしいとさすがに鉢屋も気がついたんじゃない」
「色んなレッテルが貼られとるけど、基本的に三郎はアホやないしな」
「夢菜ちゃんもくんに同意?」
「まあ……原作の設定をそのまま捉えるとそう考えるのが妥当やわ。非効率性を嫌いそうやもん、三郎」
「トリックとか悪戯とかそういう面においてはあらゆる時間も非効率性も無視して個人的に楽しみそうだけどね、奴は」

 しかし、忍者としての一端を想像するのであれば、彼は合理性、効率性を気にしそうなタイプである。

「二度接触しておいて、彼が危害を加えなかったとしたらもう彼を危険視するつもりはないだろうね。あくまで彼の目的は帰りたい、ということなんだから」
「そうなんでしょうね。……あーできることなら帰してやりたいですよ。鉢屋の言うとおり、私の一存でできることだったらよかったのに」
「おや、意外な発言」
「……なんですか」

 片眉をあげて「へえ」と彼は意外そうに眼を軽く開いた。どういう意味ですか、とそのどこかしら腹が立つような反応にきつい眼差しで問いかければ堀内は薄く笑った。

「彼らを帰したくないものだと俺は思っていたんだけど。家の件でもそんなニュアンスを感じたしね」

 堀内が四人を自分の家に移らせたらどうか、と提案してきたときのことを思い出す。確かにあのときはその提案を拒んだが、それはあまりにも堀内に負担が掛ってしまうからと、私がもっと彼らの傍にいたかったからだと説明した。その気持ちは今でも変わらないだろう。毎日どこかスリリングで憂鬱な感情を感じながらも、それでも家に帰ると彼らが一人でもそこにいて、おかえり、と言ってくれる。これほど嬉しいことがドリーマーとして存在するだろうか。けれど、同時にこれ以上深みにはまってしまいたくないという感情もある。

 鉢屋と話してから、彼らがこちらの世界に来たのは間違いではなかったのか、とも考えるようになった。もし、この世界に来なかったらあの夜で不破と尾浜は鉢屋の手によって殺されていたかもしれない。トリップすることでそれが回避できたことは良いことだと感じる。ただ、果たして全てがよいことだらけであったのか。やるべきことがある、と彼は言った。漫画でも出てきたことのない必死、という表現が妥当なのかはよく分からないが、彼が追い詰められている様相を少しでも他人に露出するほどのことを彼はやるべきだった。そしてそれを達成しないままこちらの世界に来てしまった。そのもどかしさをゆったりとした学生生活を送っている私が想像することはできないだろう。……いや、これは私が勝手に今現在判断していることであるし、考えたところでどうしようもない事柄ではあるのだが。

「帰したくないと言っても、いつかは帰ってしまうでしょう。彼らが生きていくべき世界はこちらではないんですよ」

 自分自身に言い聞かせるかのようにその事実を口にした。長く、彼らと過ごしているとこの日常がまるでいつまでも続いてしまうかのように感じてしまう。いつか本当に彼らが帰ってしまった時の衝撃がこの現代にいればいるほど激しくなるような気がして、なによりそれが一番恐ろしかった。

「まあ、帰る時は帰る、帰れへん時は帰れへんよ。神のみぞ知るってやつやん。そんなよくもわからん可能性より、三郎はどうするん。ほっとくつもりなんか?」
「……そりゃあ私としてはこのまま放っておくのは嫌だよ。でも、私が介入したところで何かが変わるわけでもないのは明白だし、これ以上余計なことをしたらそれこそ」
「嫌われてしまうって?」
「自分が好きだからより一層ね。嫌いなキャラなら別にどうでもいいんだけどさ。なにより、鉢屋がどこにいるのか知らないのにどうやってしろと」
「ああ、それは目星付いとる」

 サラリ、と夢菜がさも当り前のように切りだした。この時ばかりは私も、え、と呟きたきり言葉をなくす。動揺している私にふふふ、と得意げに一枚の名刺を差し出した。

「ここのバーで三郎が働いてんねん」
「なんでわかったわけ。あの人、普段も雷蔵の顔してんの?」
「いや、それがな、めっちゃイケメンな兄ちゃんが働いとるなあって思ったら……誰やったと思う?」
「えー……出てくるキャラクター?イケメンといえば、仙蔵とか」
ちゃんわかってへん。イケメン言うたら利吉さんやろ。彼は元祖や元祖」
「じゃあ、何、利吉さんに変装してチヤホヤされてんの」
「そや」

 こっくりと頷いた夢菜に、私は鉢屋の逞しさを感じた。本人は上手いことやっていると言っていたが、適応力は私の想像以上だった。そうか、利吉チョイスか。にんたま世界でのイケメンは現代でも通用するのか。さぞかしもてるだろう。いや、不破がイケメンじゃないといっているわけではない。けれども、利吉は幼い女の子も虜にするような男性だ。何を隠そう私もにんたまを現役で見ていた頃は利吉が大好きであった。尚、今その愛は思いっきり上級生へと移転している。と、まあ、確かに利吉はバーテンダーとか似合いそうだなあと想像していると、にやりと夢菜が笑った。

「まあ多少髪型とか違ったんやけど、うちの眼力では気付くのも簡単なことやな。で、ちゃんから利吉さんが現代に来たとは聞いとらんかったし、なにより、三郎が行方不明やって知とったから。……恐らくあっとると思うで。確認はしとらんけどな」
「夢菜が言うんだったら多分合ってる気がする。兵助を兵助だって気付いたのは夢菜だけだし」

 行くか、行かないかは私次第だ、とでも言わんばかりに彼女は静かに返事を待った。即答はできなかった。なるべくなら彼と関わらない方がいいはずだ。これ以上関わると、更に面倒なことに巻き込まれるのは目に見えている。彼が抱えている物をあの四人が扱えなかったのだから到底私に扱えるものではない。けれど、このまま黙って見ていることも私にはできないというのが事実だった。鉢屋のそれを解決するための力は私には何もない。だが、まだここが終わりではないと思った。彼との関係を断ち切りたくなかったというのが本音かもしれない。まだ、終わりにはしたくなかった。

「……連れてってもらっても、いい?」
「もちろん。せやなあ、今晩あいとる?」
「うん、平気。今晩行くのか」
「うちも忙しいんや。あ、他の四人には内緒にしといた方がええよ」
「そりゃあね。夢菜と飲みに行ってくるって言うだけにしとくよ」

 ぴぴぴ、とメールを打つ。時間的にもそろそろ夕暮れだったので、そのまま飲みに行くことにした。晩御飯は適当にお願いします、と文末に付け足して送信。数分後に恐らく竹谷であろう、内容の了解とそして遅くなりそうか、という一言も含まれていた。遅くなったらタクシーを拾って帰るので大丈夫だということをまたメールした。竹谷は外見にそぐわず意外とマメにメールを返してくれる。一人でシフトが入り、遅くなった日には「迎えに行く」という内容を必ず送信してくれ―もちろんそれは鉢屋あってのことだが―大体そういう日には竹谷が迎えに来てくれていたりした。痒いような感情がこみあげるが、嬉しくないわけがない。へらり、と締まりのない顔をしてパタンとメールを閉じた。





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*100904 好かれたいと言う気持ちは誰にだってあるはずだ。