その頃、私はまさか尾浜が近くでこちらを伺っているとは露ほども知らず、緊迫した空気の中で鉢屋と対面していた。 「で。なんの用が合って私に近づいて来たわけ?この間の話し、まだ引きずってんの」 開口一番に早速話題を引き出せば、へら、とした笑いが彼の口元に浮かんだ。 「そりゃあもう、疑わしくてしょうがいに決まってるからさ。この不思議な現象はあきらかに貴方に得がありすぎる。可笑しくないか。なんで貴方の大好きな五年生だけが、貴方の部屋に訪れるのか。考えてみたことはない?」 「私だって、自分に都合が良すぎると思ったけど。けどね、だからと言って私が貴方達を呼び寄せただと、そういうわけ?確かに来た時は嬉しかったけどねえ、こんな捻くれた鉢屋がくるんだったらかわいいかわいい一年は組を呼んだ方がはるかにましってもんでしょ。違う?いい加減に人のせいにするのは止めて現実を見なさいよ」 「……普通だったらそうかもしれないけれど、私はそこが納得いかない」 そう言われても、私にはなんの解決策もない。ただ無駄に時間が流れ去っていくだけだ。こんな天変地異を一人の女が操っていたなんてその事実の方が可笑しくないか、と普通、考えればわかりそうなことを幾度も幾度も問いつめている鉢屋をその時初めて変だと感じた。改めて考えてみると余計にそうだ。 「焦ってるの?」 彼の思考は明らかに可笑しい。まるで背後から何か大きな恐怖に追い詰められているようだ。私の指摘に彼はひくり、と顔をうならせた。疑わしそうな目でこちらを見ている。 「……私が?」 「兵助もそりゃあ元の世界に帰りたいと何度も何度も言ってたし、それに見合うように彼が一番異世界トリップへの可能性を調べていた。けれど、鉢屋みたいに我武者羅ではなかった。どこか冷静であったよ。……でも、貴方は今、それとは少し違くない?」 若干の変化が彼の声色から読みとれた。動揺と驚愕が入り混じったような複雑な感情の動きだった。それは、今までほとんど薄気味悪い笑顔という一定の表情を保ち続けていた鉢屋にしてみれば初めてそれを崩した瞬間であったと言ってもいいだろう。つまり、私の言葉は彼の目的の核心には触れていないとしてもそれを掠めた、強ち間違ってはいない見解であったといってもいいのかもしれない。じっと、鉢屋の出方を伺っていると、彼は視線に耐えかねたように一口暖かいコーヒーを口に含んだ。 「……まあ、ね。それについては認めざるおえないのかもしれない。確かに私は焦っている。早く元の世界に帰ってやらなければならないことがあるからね。そのために疑わしいものは真っ向から潰していく必要がある」 「その筆頭が私なんだね」 「そう。隠していることは洗いざらいはいた方がいい」 隠していること、といわれても鉢屋は彼らの世界が漫画であるということを既に知っている上に、それがどのような年齢層にどういった経由で人気を会得していったかそれすらも知っているという。直接、逆トリップの法則を知っているわけでもない。だとすれば、これ以上他に何が残るというのだろう。隠していることなど、ありはしないではないか。 「やっぱり、私の中に手掛かりはこれ以上ないと思うよ。力になれなくて残念ではあるけれど」 「……」 「それでもなお疑わしいのなら逆に問いかけるけど、私に危害を加える可能性のある人物を身を呈してまで現世に留める理由は何?私にどんなメリットがあるというの?」 それは、と鉢屋がそこで言葉に詰まる。これほどまでに頭をフル回転させて意見を考えたことが未だかつてあっただろうか。鉢屋の厳しい視線を受けながらも、自分がそれに屈しているという様を悟らせないように平然としていた。が、内心はそれどころではなかった。前よりも言葉遣い、鉢屋の態度、全てが軟化しているはずなのに、一言たりとも油断をしてはいけない、言い淀んではいけないというようなプレッシャーがあった。けれども、私とて常日頃から逆トリップ夢を読み漁っているわけじゃない。ドリーマーは伊達じゃねぇ、ということだ。私の若干攻撃的な言葉に彼は言葉を吐き捨てた。 「じゃあ、どうしろと?黙ってこちらの世界に住めというのか?」 「それしかないでしょ。私には他に何も手立てはできない。いつか元の世界に帰れる日がくるよ。それが逆トリップのセオリー……いや、理論なんだから」 はっきりと口にしてしまえば、鉢屋は皮肉げな表情を浮かべた。 「随分簡単に言うな。所詮、アンタにとっちゃ人ごとだもんな。私たちがこっちの世界に来たことだって幸運としか思っていないんじゃないのか」 「…………うんまあ、そんなことがないとは言い切れないけど」 心当たりが多いにあるため、語尾を言うにしたがって段々と力なくなってしまっている私の発言を聞き、ほらみろ、と言わんばかりに思い切り鉢屋が顔をしかめた。しかし、ただ喜んでいるばかりの状況ではなかったのも事実である。けれどそうであったとしても目の前の彼に告げたとして言い訳がましく聞こえるだけだろう。なにより、完全なる理解を求めてはいないし求めるような事でもなかった。他人、人ごとである上に根本的な考え方が異なるのだ。生きてきた時代背景も異なる。理解しがたいことなど山のようにあるのだろう。それを受け止めるも、どう解釈するにも私にはしようと試みることさえ苦しいことだ。だから、反論をしないという選択を選び、口を噤んだ。しん、とした沈黙を遮るために新たな話題を鉢屋にふる。 「鉢屋は彼らとはもう接触は一切とらないつもり?」 「何故取る必要がある?」 「雷蔵と勘ちゃんと同時期にこちらの世界へ飛ばされたのだから、それなりに帰るときに関係があるとは思わないの」 「思わないこともないが、私が何をしてきたかまさか聞いてないわけじゃないんだろ。既に私と彼らとでは歩むべく道が分かれている。安易に干渉すべきではない」 するつもりもない、とそう鉢屋は断言した。静かに話の幕が降りた。もう、話すことはこれ以上なかった。私は、鉢屋と街中で出会って話がしたいと告げられた時、もしかしたら生きて家に戻れなくなるかもしれないと半ば覚悟を決めていた。前回の会話の流れと、彼の聞きたいこと、を合わせれば確実に彼は、どうやったら帰れるのか、答えないならば殺す、とまた言ってくると思ったからだ。しかし、人前であるからか―この程度の人ごみから簡単に私を連れ出し、殺すことは彼にならできるだろうが―彼は私に手を掛けようとはしなかった。最初のものも単なる脅しだったのかもしれない。なんにせよ、私は五体満足、命を体に宿したまま帰路につくことができた。 |