鼻につく消毒液の匂い。かちゃりと金属音がぶつかり合う音が小さく響く。ここは、大学内にある医学部が使用する設備の一室で、私の知り合いの教授の個室となっている。動かしている手が止まったところで彼は口を開いた。 「うん……これでよいかな。二週間後に抜歯をするからそれまでは消毒しにここに通うこと。あと、話によると結構出血したみたいだから血を作るものをなるべく食べなさい」 「ありがとうございます」 「いーえ。で、そこの君は捻挫かな?ちょっと見せてごらん」 「あ、はい」 私の知り合い……というか、ガンダムオタク仲間の堀内は大学で医学の教鞭をとっている。学内でも若い方の彼は生徒からも親しみやすいと人気のある教授だった。それにプラスしてオタク仲間とくればその分気は緩み話も弾むものである。生徒と教授という枠組みから離れた付き合いがあったので、内緒で彼らの傷を見てもらっていた。正月休みでまだ学校自体は始まっていなかったが、携帯で連絡を取ってみるともう堀内は学校に籠っているそうなのでしめた!と思って彼らを引っ張ってきたのだ。四人の若い男―特に怪我をしている彼ら―に対して警戒を否めなかったようだけれど、怪我を見せたら顔が真剣を帯びたものに変わりちゃっちゃと手当てをしてくれた。堀内さまさまである。 「はい、こっちは軽いみたいだからしばらくこうして固定して安静にしてればいいよ。くんは包帯の巻き直しとかできる?」 「あ……その程度は僕もできるので」 控えめに不破はそう答えた。人目につかないように朝早く、説明もままならないうちに彼らを連れ出したので、混乱が表情にはっきりと浮かんでいる。不破も尾浜も、竹谷と久々知が隣にいるからこそこうして大人しくついてきてくれたのだろう。急すぎる展開ではあったけれど、尾浜の傷は自分では手の打ちようがなかったのでこうするしかなかったのだ。明らかに怪しげなものを見つめる目を彼らはしていたが、堀内はそれにあまり関心を見せずにさらっと流していた。 「じゃあ、治療も終わったことだし、四人は先に帰ってて。はい、これ鍵」 「お……おう、わかった」 ちゃりんと鍵を竹谷へ向けて投げる。そろそろ、と真っ白なドアを開けて出ていこうとした彼らを後ろから堀内が呼びとめた。私が残る、ということはきちんと堀内に対して説明を施すということで。彼もそれを察したのだろう、訳もなく彼が声をかけるはずがない。 「誰か一人残ってもらえないかな?」 偽らず彼らの世界についてきちんとした説明を彼にはしたかったので―オタクという間柄だからこそ通じることもあるだろうし―敢えて彼らをここから遠ざけようとした。だから、私はじいと視線を投げかけて、それはまずいと小さく手を横に振ったけれど彼はそれをまるで見なかったかのように扱う。状況を正確に掴めていない竹谷と久々知は困惑したまま顔を見合わせていた。仕方がない。 「……兵助、ちょっと付き合ってくれる?」 「ん、わかった」 全てを堀内に話すと心に決めていたので、彼しか残せないことは明白だった。即座に久々知と決めたことに竹谷は不思議そうな顔をしていたので、へらっと笑って付け足す。 「ハチは二人を頼むよ。……任せたからね?」 「わかった、任せとけ」 ひらりと片手を挙げて笑いかけてくれた竹谷は二人を引きつれて帰路に着いたようだった。 「さて、どういうことか説明を聞いても?」 ちらりと久々知に視線を向ける。三人の気配は去ったようでこくりと一つ頷いてくれた。 「……聞いたあと後悔しないでくださいね。あとこの話は他言無用でお願いします」 にっこりと私は笑みを浮かべた。いきなり忍服に身を包んだ青年を二人も引っ張ってきて有無を言わさず手当てをしてほしいなんて頼めるのは彼しかいなかったので問われる覚悟はできている。ただし、一度関わったからにはそれなりに後援を求めることを約束してもらわなければ。私は彼に覆い隠すことなく全てを吐露した。久々知が彼らの世界が創作上だということも含めて全て。……鉢屋のことは伏せてしまったけれども。 「へえ、信じがたい話ではあるけれど、彼らは漫画の世界からやってきたにんたまだと考えてるわけか」 「ええまあ、コスプレではないと確実に断言できます。先ほど顔を出さなかった奴がもう一人いるんですが、そいつ私を担いで四階から飛び降りても無傷でした。明らかに身体能力がおかしいです」 「またそれは……面白い体験をしたもんだな」 「面白いどころか怖かったんですけど。」 オタク兼大学教授ということで見解が一般人とは違う。精神科行きを免れない私の言動を聞いても、にやっと顔を歪めただけだった。先ほど本人たちを見ている性もあるのか、実感はあるよう。なんたってどこぞのテーマパークでしか見られないような使い古した忍服を着ていたもんな……尾浜が。で、私が堀内のところにやってきた本題というのがあるのだ。 「というわけで思いっきり異世界人なんで……保険証とか無いんです。かと言って治療費を保険無しで払えるほど、裕福なわけでもありません。ってことで先生のよしみでタダ……百歩譲って保険利かせた金額でどうかお願いします!」 「あ、それは別に構わないよ。校内の医療器具は基本的に無料だから。気にせず連れておいで……頭怪我した子、尾浜くんだっけ?」 「マジですか?!ありがとうございます!」 シャーの専用携帯電話を買う時に手伝ってやった甲斐があった。あの後から堀内との関係はあくまでオタクとして良好だ。彼がいなければこうして医務室にやってくることさえも困難だっただろう。……伝手があってよかった。ほお、と息を吐いてると、少しだけ考えるように手をあごに置いて堀内は思案を巡らせていた。不意に顔を上げて呟く。 「しかしパラレルワールドという説は無いだろうか。……この世には様々なパラレルワールドが存在するはずじゃないかな。漫画であったとしても、それに影響された世界がないとは言い切れない。現に彼は生態状きちんとした人間だよ。漫画の世界からやってきたとは納得しかねるね」 「パラレルワールド?」 久々知は初めて耳にする言葉に眉を寄せた。 「この世界に並行した世界が無限に存在するかもしれない、という仮説の一つだよ。それこそ異世界や二次元の世界とは違う、一次元の存在として。……ああ、少し―難しいかもしれないから、軽く流すくらいに聞いてくれればいいよ」 実際に、呼吸をして息をして血も体中をめぐり、心臓が脈を打っている。漫画という薄っぺらい紙で作られた中から彼らが這いだしてきたとは思えない。かといって、トリップというものがあるともいいきれない。私もパラレルワールドの概念が脳内に浮かんでこなかったわけではないが、これ以上久々知を混乱させるわけにもいかないし、きちんとパラレルワールドというものを説明できる自信がなかったので触れなかった。私達の表情に理論でどうこういっても仕方がないか、と苦笑いした堀内は話しを変えようと話しの腰を折った。 「一つ、提案があるんだけれど。彼らを俺の家に住まわせるのはどうかな」 「え?さすがにそこまで先生にお世話になるわけにはいきません」 「……あのなあ、普通に考えて、女子一人の中に男子複数を住まわせるわけにはいかないだろう」 「私は、……彼らには不本意なことかもしれませんが、一緒に暮らせることを少し楽しんでるんですけれど」 本音である。初めからこの逆トリにわくわくしていたことは確かだが、一ヶ月という短い間でも実際に一緒に生活してみてすごく楽しかった。私が手放したくないのかもしれない。彼らといる時間をできるだけ長く引き延ばしたいのかもしれない。深みにはまっていることに苦笑いを浮かべながらも彼らを取られたくは無いと考えてしまう自分に気がついた。堀内はドリーマーがなんたるか、を詳しくは無いと思う。あくまで彼はただのガンオタだから。しかし、私個人に関しては様々な面を曝け出しているので、理解せずとも知ってくれてる面は多い。隣で黙って聞いてる久々知は怒っているかなと内心苦笑いだったが、驚くべきことに久々知は私の援護に着いた。 「それはごもっともです。……しかし、今、彼女を一人にするのも危険なんですよ」 久々知の言葉に、堀内は怪訝そうな顔をした。私も訳が分からなかった。この世の中で危険にさらされることなど少ない。幸い私はストーカーに襲われるような美人でもなかったし、間取りは四階という泥棒も下からも上からも狙いにくい位置に住んでいる。 「先ほどの四人の他に、もう一人こちらにやってきた奴がいるんです。彼はのことも部屋のことも記憶している。手掛かりを求めて接触をしようとするかもしれない。……昔の仲間とはいえ、一概に危害がないとは言い切れませんから。しばらく一人にしない方がいいかもしれません」 「……それは命が狙われているということなのか?」 「一般人なのでそのような強硬手段には出ないとは思いますが。念のため。それに、四人で居る方が逆に安全かもしれないですよ。二人きり、ではないのですから」 鉢屋のことを言っているのだろう。他の五年生四人に接触することもあるだろうが、一番容易くかつ手頃に捉えられるのははっきりいって私だ。考えてもみなかった事実にぞくりとする。首元にあてがわれた真剣の感触が蘇った。少し顔がこわばった私を見て、しばらく考え込んでいた堀内ではあるが、観念したように一つ頷いた。 「信用するからね?」 「忍として、ご約束いたします」 「……わかった。ただし、俺にも全面的に協力させること。手伝えることがあったら何でもするから。くんは逐一進展があったら報告すること。が、約束だ。いいね?」 いつになく真剣な目で見つめてくる堀内に私は静かに首を縦に振った。 帰ってみると案外落ち着いた雰囲気であった。竹谷が手慣れたように朝ごはんのトーストを彼らに差し出していた。はむはむとイチゴジャムが乗っかったトーストを口に入れている不破は可愛い。もちろん尾浜もかわいい。思えば今朝はまだご飯すら食べていなかった。小さくきゅるきゅるとなったお腹に顔が赤くなる。聞こえてなければいいのだが。 「はイチゴと目玉焼きどっちがいい?」 「あー……目玉焼きで。ありがとう、兵助」 久々知はくすりと笑って台所へ立った。二人の視線が一気に視線がこちらへと集中したが、疎外感にさいなまれることは無かった。 「さっき話した今現在俺たちが世話になってる、」 「です。初めまして」 竹谷の言葉にぺこりと頭を下げれば、二人とも小さく頭を下げてくれた。竹谷に何処まで話が進んだのか小声で問いかければ、とりあえず未来であることと帰るすべは無いこと、現在はどういった生活をしているか、などまで説明したと答えてくれた。 「じゃあ、ここが未来っていうことには納得してくれたってこと?」 「とりあえず説明を受けましたが、確実に真っ向から信頼できるわけではありません。かと言って僕たちがいた時代かといえばそうは言い切れない。まだ様子見です」 「……まあ、俺はどこでもいいとは思ってるけど」 「勘ちゃんは大雑把過ぎなの!」 「だって、未来とか面白そうだもん」 深刻な表情で脳内でいろいろと悩んでいるのは不破の方だった。どちらかと久々知に近い考え方だと思う。元々悩み癖があるのは知っているので、判断することは難しいことに思うけれど実際に現代という世界を体験してもらったら少しは確信してくれるのではないかと思う。後者の尾浜は……これは私も意外だったが実にあっけらかんとしている。面白そうという意見はこの中では私くらいしか思っていなかったのでないだろうか。いや、私の場合は不純な動機で面白そうだとこの状況を喜んでいたのだが、まさか頭に怪我を負っている彼がそのようなことを言うなどとは思ってもみなかった。竹谷が相変わらずだな、と苦笑いしているのでどうやら彼も昔からこのような性格らしい。 「どっちにしても、君たちは兵助とハチと一緒に過ごした方がいいと思うから、うちにいてくれると助かるんだけど、どうでしょうか?」 「それこそこっちが言いたかったことです。……いいんですか?僕たちみたいな怪しい奴らが二人も増えて迷惑にはなりませんか?」 不破の謙虚な物言いにぐさっと心臓をつき抜かれた気がした。天使がいる。天使が存在する……!当初の二人にはばちばちした敵意しか受け取らなかったが、こちらはむしろ喜んでと言わんばかりの保護欲を拡大させるものしか感じ取れない。なにこの癒し組二人。それとも実は仮面をはがせば計算づくしの演技だったりするのだろうか。どっかの天才や魔王みたいな。 「迷惑ではないです。ただ、彼らも同じことなんですが生きていく上でアルバイト―まあ仕事なんですけど自分で生きるだけのお金は稼いでもらわなければなりません。色々と戸籍などが必要な面もあるので生きていく場は提供しますし、慣れるまでは援助しますけど基本的に自立して生活を立ててもらうことにはなると思います。それでも?」 「一人で投げだされるよりはマシってもんだから。ありがたいです」 ぺこり、と尾浜は頭を下げた。とりあえず、私の思惑通りこちらで暮らしてもらうことには異論はない様子だ。よかった……と心の中で零していると、久々知が出来上がったトーストと牛乳を手にして入ってきた。それを受け取って彼の席を空ける。さて、本題はここからだと言わんばかりに竹谷が話しを切り替えた。 「で、結局、三郎はどうする」 ひくり、とその場にいた全員の喉元が引き攣った。 |