もし私が乗り越えるべき道としてこの道が用意されたのなら、私はそれを悔んだりはしない。久々知の後姿を追いながら考えていた。どうして彼がこのことを知らされなければならないのだ。何故彼らはここにやってきたのか。もしこの世界へやってくることがなければ知らなくていい事実であった。突き放すようにささやかれた言葉には深い深い感情が流れていた。何も知らない私はただそれを想像することしかできない。が、決意した。追及はしない、と。知ったふりをして過去の彼らの生活をとやかく言うことは私がしていい行いではない。ただただ、こうなったからには彼らのこれからを見守ることを精一杯やり遂げていこうと。 「」 不意に呼びとめられる。竹谷の姿はない。ここはスーパーのなかで、彼はきっと冷凍食品を漁っているに違いない、やけに彼はそれらが気に入っていた。だから、私の隣には今久々知しかいない。ん、と一言発することもせずにくるりと体を彼に向けて反転させた。短くなった青みがかった黒の髪の毛がゆっくり視界に収まる。なにを考えているのかわからない、無表情であった。 「はっちゃんには、言わない」 たった一言だけをポツリと零す。決断した言い方だった。どうも久々知は遠まわしな言い方よりも直接きっぱりとした発言が多い。彼らしい様に私は少しだけ目を細めてうん?、と続きを促した。 「さっきの会話を聞いて、何かしら気になっていると思う。が、余計な感情を生まれさせたくない。……結局俺も同じ考えに行きつくんだ」 「隠し通す、って?」 「それが一番利口だ」 だから、協力してくれ。二の舞を踏まない様に。そう言いたいのだろう、彼の瞳は私を捉えて止まなかった。その一言だけで彼の意思が私にまっすぐ届いてくる。私は間を置いて首を縦に振った。 「私もそれは同意見。元々、久々知にも知ってほしくなかったんだもん。ただ、ハチが納得してくれると思う?」 「……それは微妙」 「だよねえ。これだけ、派手に喧嘩してるんだから」 滅多に感情を乱さない久々知とこの世界に来て初めて、喧嘩らしい喧嘩を私と彼で繰り広げたのだからその根本にある理由を彼が知りたいと思うのは当然のはずだ。もし、仮にこれが割と長い間付き合っている友達との間で起こったらば……私も気になる。問いただしたい。 「でも、はっちゃんは自分から聞こうとはしないと思う。俺らから言うんならまた別だけど、無理やり聞いたりはしないよ」 「やけに自信ありげだね」 「……六年間、一緒にいたんだ。はっちゃんの人となり、よく知ってる」 四年間のブランクなんてなかったように、そう言って、久々知は目を細めた。可愛い笑顔、とでもいうべきか、原作時の彼だったとすれば本当に食べちゃいたいという形容詞がぴったりくるくらいの愛くるしいものに違いない。けれど今は少年時よりは歳を重ね大人っぽくなっているからから可愛らしいというよりも、どこか儚げで麗しいと形容すべきだった。過去に思いを寄せている彼の表情は緩んでいた。彼にとって過去のあの時間は悔いるべき時間ではない―とそういうことだ。 「なら、とりあえず、本名をうっかり名乗らなければ問題ないとは思う。現代人の格好をしているし……よっぽどのコアなファンじゃないと気がつかないんじゃないかな。夢菜も当初は久々知のことを他人の空似だと思ってたくらいだし」 「それで防げると?」 「……有り得ないことだからね、偶然を装えばいいと思うよ。下の名前だけ、告げるとかさ。惚けるっていうのもあり。よく偶然だなって言われるんだ、とか言い返せばこっちのものでしょう。けど竹谷になんて説明しようか」 「そこは俺から言っておく。よりは誤魔化しは上手いだろう」 その言い草はカチン、とくるものがあったけれど、事実なので致し方がない。私が説明すれば変なところで辻褄が合わなくなってしまいそうだ。久々知は嫌というほどポーカーフェイスが得意なので、動揺を悟られることもないと思える。それに、なんといっても洞察力の鋭い彼らに私が太刀打ちできるとは到底思えない。私にできるのは無事に事実を悟られないまま彼らが元の世界へ帰れることを祈るぐらいだ。 「……そうだ。呼び名」 「うん?」 「さ、俺のこと下の名前で呼んでくれ。苗字はできるだけ隠す方針でいった方がいいんだろ」 「そういえば久々知って呼んでるんだっけ。えーと、……兵助、でいいのかな?」 彼に指摘されるまで気がつかなかった。すぐさまそんなところまで気が回った彼の頭の速さには脱帽だ。案外、気にしていたのかもしれないけれど。本人の前では初めて口にする下の名前に不覚にもドキドキした。そんな場面ではないということをわかっていても、男性の下の名前を呼ぶなんてこと滅多にない。竹谷はあだ名なので問題は無いのだが、久々知はヘタなあだ名がない。兵ちゃんでもいいが、それではあの一はのツンデレ兵太夫と被るではないか。そこは兵ちゃんという可愛らしい雰囲気が似合うぷにぷにの彼に譲るべきだ。心の中の私の葛藤も知らず、兵助、と呼んで問いかければ彼は曖昧にふわりと笑った。 それからは怒涛の日々だった。年末年始ということで終えなければならないことがたくさんある。大学では冬季休暇という名のほんの10日程度の休みをはさむのだが、その前に提出しなければならないレポートが山ほどあった。テスト前までためておくと後々自分が後悔するので仕方ないことだとはわかっていても何も一気に押し寄せなくとも、と理不尽に感じてしまう。大部分は共に講義を受けていた久々知に助言をしてもらったのだけれども。それから年越しまではバイトをぎりぎりまで交えつつ尾張で過ごした。大晦日のならわしである大掃除も昨年とは違い人手が増えたおかげで細かいところまでさくっとすることができた。たまにはあの二人にも感謝である。 年越しはもちろん年越しそばと紅白を見ながらというお決まりのパターン。紅白かK-1かで意見が割れたけれど公平にジャンケンをしたところで紅白に決定した。ついでにこれが現代の日本人の多くがとる年越しパターンだということも教えておいた。そこらカウントダウンまでは起きて、除夜の鐘を聞きながら就寝。朝から初詣に出かけるために夜更かしなんかしていられなかった。私は初詣の後に実家に帰ることになっている。色々あったので忘れていたが、今年は成人式が行われるのだ。本来なら冬季休暇に入ってすぐに実家に戻ろうかと思っていたのだが、彼らを連れていくわけにもいかないし、かといって置いていくわけにもいかない。けれども、正月くらい帰って来いという両親の言葉も耳が痛い。ということで、年明けまではこちらで彼らと過ごし、それから成人式までは二人で生活してもらうことにした。料理は二人ともそれなりにできることだし、大概バイト以外になにも残されていないので大丈夫…だとは思う。だと信じたい。何かあったら即携帯に連絡を入れるようにしているし、元々生活力はある方だと思っているから、心配がないとはいえないけれどなんとかなるだろうと踏んでいる。 「では、いってきます」 冬物なので嵩張った上に苦戦して詰め込んだスーツケースを持って私は二人を振り返った。玄関先でも、火曜日は燃えるごみの日で、とか鍵の掛け忘れはしないこと、とか散々先ほども繰り返して言ったくせにまた同じことをいっているのは仕方ないことだと思う。それに竹谷はうんざりしたような表情を浮かべ、久々知は呆れたというような顔をしていた。自分でもそう思うのだが、心配なものは心配なのだ。最終的に久々知に新幹線の出発時刻に間に合わなくなるなど言われてからようやく踏ん切りがついて、玄関から外へ足を踏み出した。やっぱり帰るのは不安だ。 「……、正月くらい親孝行して来いよ?俺らは大丈夫だから」 「そうだ。……心配しすぎなんだよ、は」 肩を押されて玄関から追い出された私は、まるで私が子供のようだと苦笑いだった。実のところ私はまだ彼らのことを母親さながらの目線で見ているのだが、もうそれはおさらばの様だ。精神的にいえば私よりもずっと落ち着いているし、こうして今日もなんだかんだで気遣わせている。彼らの口から親孝行なんて出てきたら帰りたくないなんて言っていられない。最後に、携帯電話は肌身離さず持つことだけをもう一度念入りに言い聞かせて後ろ髪を引かれる思いでアパートを後にした。 |