寒々とした空気にピンと肌が張り詰める。もふもふとした質感のマフラーで首を包んでいる久々知だが冷えた空気は隙間から容赦なく突き刺さってくるのだ。寒い、と独り言のようにぼそりと呟くもそれはキンと凍ってその場にかちゃんと落ちてしまうくらい言葉として危ういものだった。今日は大学は休みでついでにアルバイトも休み。竹谷とは共にシフトが入っているので出ているがあいにくながら久々知はこの時間帯は空いていた。だから、本日も図書館通いといこうと思ったのだが―どうも適当に読み漁るにも限界を感じてこうしてぶらぶらと街を歩いているのだった。引っ切り無しに通り過ぎる車や自転車など、どれも自分の世界にはないものだったにも関わらず既にそれを見慣れるようになってきた自分の順応力の速さには久々知自ら驚愕だった。しかし当てもなく彷徨うにも限界があり―ふらふらと公園の匂い、いや、自然の匂いに惹かれながら親子連れの多いそこを歩いていた。身の凍えるような寒さにこれならば暖かい部屋に帰った方がましではないだろうか、とくるりと踵を返した。瞬間、あ!、と甲高い声が上がる。

ちゃんの彼氏さん!」

 久々知はという言葉に反応して、ぱっと顔を声の聞こえた方へ向けた。するとそこには、ふわふわの髪の毛を胸辺りまで伸ばしたいつか見たような顔の女の姿があった。誰だっただろう…、と心の中で考えていたのが顔に出ていたのだろうか親しみのある笑顔でどうもとにこやかに話しかけてきた。

「うち、夢菜っていうんや。この間一回あったの覚えとる?」
「……ああ、思いだした」

 あの時のの焦りようときたら尋常ではなかった。覚えている限りでは落ち着き払ったいつもの態度が崩れたのはあれが2回目だったように思う。―あとでもう1度、その大慌てな姿を目にすることになるのだが。そういった意味で久々知の中でも酷く印象的な彼女であった。夢菜は嬉しいわあと頬を染めながら、にっこりと笑いかける。どこかへ出かけた帰りなのかそれとも行く途中なのか、真冬だというのに短いスカートに見える肌色の腿があった。寒そうだな、とちらりと一瞥した後、じゃあ、と片手をあげる。あまり他人と深くかかわらない方がいい。彼女に言われている言葉ではあったが自分もそう感じた。自分がこの世の人間でないことがばれたときのその対処法をまだ以外の反応を見ていないからわからないのだ。けれど、夢菜はここで出会ったのも何かの縁だと言わんばかりにぐいと彼の腕を取った。

「なあ、あそこでお茶せーへん?もちろんうちが奢るし」
「いや、せっかくだけど遠慮しとく。また今度誘って」
「えー!んなつれんこといわんといてや」

 実を隠そう、夢菜がこうもしつこいのには理由が合った。来年行われるにんたまコスプレフェスに向けて相方を探していたのだ。もちろん、自分がコスするならば断然ナンバーワンキャラの久々知兵助―実は目の前にいる本人なのだが―その自分を差し置いても彼にぴったりな人がいてはそれはもういちかばちかでも誘ってみたくもなる。パンピーに手を掛けるなとに強く言われている上に、夢菜自身からそういったことを彼に伝えるなとも言われているのだが、自身がオタクであることは隠す上でならあの懇願になにも違反はしていまい。彼女は彼に自分がオタクだということがバレるのが嫌だ、と言っていたのだ。夢菜がコスプレイヤーだと彼に伝えたとしても類は友を呼ぶ発想には至らないはずだ。けれどそういった下心ゆえか彼女の決死の引き留め作戦は崩れ落ちた。

「急いでるから」

 ぴしゃり、と言い切った久々知。むう、と夢菜の頬が膨れ上がったけれどそこは見ないふりをした。

「残念やなあ。今度会った時は絶対、やからね。覚えといて」
「……わかった」

 今度会うときにはを同伴させることにしよう、と久々知はそのとき考えていた。にこり、と愛くるしい笑みを浮かべた夢菜に苦笑いする。どうも、元の世界のくのたまにそっくりなのである。もし彼女が向こうの世界にいたとしたらその根性から立派なくのたまに成りえただろう。しぶしぶと言ったかんじてこくりと頷いた久々知の返事に満足気に頷いた彼女は、あとひとつだけと前置きした後にお名前は?、といった。

「久々知兵助」

 途端に、彼女の顔から笑みが消えた。





 せわしく震えるバイブモードの携帯電話。バイト中にも関わらず運よく休憩に上がることができたは、普段電話がかかってこない時間帯だからこそ不信に思っていた。久々知だろうか、と首を傾げてよくディスプレイを確認せずもしもーし、とのんきな声を出すと、切羽詰まったような興奮したような声が聞こえてきた。それは予想していた人とは全く異なる女声で、プラス聞き覚えのある独特のイントネーションだった。

ちゃん!こないだ連れてたカッコイイ男の子って一体なんやの?自分のこと久々知兵助やいうてんやけど?……どういうことなん?」
「……夢菜?ちょっと待って。久々知と会ったの?」
「会ったも何もすぐ目の前におるわ。全く、容姿が似とる上に自分は久々知兵助です、ってなんの冗談かと思うやんか。でも、冗談やないてそればっかり。どうなっとるんかさっぱりわからんわ」

 まさか、こうもすぐ夢菜と久々知が遭遇するとは思ってもみなかった。これは、最悪の事態になりかねない。夢菜がもしぽろっと久々知兵助なんて漫画の世界の話だ、と言ってしまっていたら。そう想像したところで思考が停止した。その事実だけは知ってほしくない。隠しておきたかったことだ。彼らが受け止めるべく範囲ではない―余計な知識だ。少なくともはそう思っている。とりあえず、ちらっと時計を確認してから夢菜に口止めをした。余計なことは言うな、これからすぐそちらへ向うから、と。混乱気味ではあったが、常識がないわけでもない。今までに出したことないような真剣な声色でそう伝えると、夢菜はしぶしぶながらも頷いた。そして待ち合わせにスタバを指定して、彼女はとりあえずこのことを竹谷に伝えるべくたたっと急いでスタッフルームへと足を進めた。そして、すれ違いざまに今上がったばかりだという同年の鈴木と出くわす。

「あれ、ちゃん。血相抱えてどうした?」
「鈴木くん!……ごめん、お願いがあるんだけど私とバイト変わってくんない?あと一時間、なんだけど」
「なんかあったのか?そんな慌てて……」
「うん、ちょっと。埋め合わせは必ずするから!」

 頭を下げるに鈴木は心配そうな表情を浮かべた。ほとんど同期でこのバイトに入った鈴木とは同年ということもあり仲が良かった。しかし、割と仲が良いといってもこのような咄嗟にむちゃな頼みごとをしたのは初めてのことだ。これからの予定もあるだろうし、自分でも有り得ない願いだとはわかっている。けれど、顔から人の良さがにじみ出ている鈴木は、いいよ、と首を縦に振った。

「ホント助かる。ありがとう!」
「いいよいいよ。その代わり今度飯奢ってな?」

 ぽんと背中を押して促してくれる鈴木に感謝してもしきれなかった。早くいきなと言わんばかりのその行為にありがたさが身にしみる。はスタッフルームへと急ぎ、竹谷に先に帰ることを伝え家の鍵を渡した。彼は懐疑的な視線を投げかけてはいたが、了解、と零してそれを受け取る。そのまま、先はチャリをぶっこいでスタバへと向かった。なんにせよ、最悪の事態にまでことが進んでないことを祈るばかりだった。





 スタッフルームに駆け込んできたの表情は酷く青白かった。そして、今までこんなに焦っている彼女を見たことがない、とも思った。初めて出会った時のあの異常なまでの落ち着きの欠片さえも伺えやしない。何事が起ったのだろうか―と思って結びついたのは今ここにいない久々知のことで。けれど、まさか彼がなにかへまをしでかすとは思えず、違うことなのだろうか、と首をかしげるばかりだ。当のは早口で家のスペアキーを手渡しすと共に、バイトが終わったらすぐに帰ってて、遅くなるときは電話するからと自分の携帯を竹谷に預け店を飛び出していった。

「……いったいなんだ?」

 一人で頭を悩ませる。本来ならこのまま尾行したいところだが、バイトのシフトがまだあと一時間残っている。彼女だって同じはずなのに、と思ったところで入れ違いに鈴木という名の青年が入ってきた。竹谷と同い年だからということで直接、研修の指導をされている人物だ。先ほどおつかれ、といって出て行ったばかりだというのにまた着替え始めている。意識していたせいか、不意にかちっと視線があった。

「竹谷、ってさ。ちゃんと、どういう関係?」
「は?」
「家の鍵。それちゃんのだろ」

 好戦的な視線が投げかかる。それを見て、ぴん、と来た。彼はに惚れているのだと。そして鍵を持っている自分に対して、同棲でもしているのか、と疑いを掛けているのだ。その推察はいたって正しいのだが、それは同棲ではなく思いっきり同居である。けれど、付き合ってもいない二人が同居をするのも―またこれはおかしい話で。ここははぐらかすというか、はっきりと真実を伝えずに仄めかすのが一番の手だ。

「だったら、何?あんたには関係ないことだと思うんだが」

 挑発し返したとしても、それに彼が乗るようなことはなかった。普段が温厚な性格だけにこういったもめ事には進んで手を出さないのだ。反対に竹谷は割と本能で動くタイプ。冷静になれと勤めればとことん時には非道なくらい冷酷になるのだが―如何せん、今は少しばかり蚊帳が外れていた。今にも漏れそうになる殺気に気づいて、苦笑いを向ける。

「俺、まだバイト残ってるんで」

 さっと手のなかにあった鍵と携帯を自分の鞄へと納めて颯爽とその場を後にした。ようやくコツを掴めてきたというのに、働きにくくなるな、と心の中でそう零す。何より、のことを好いている男が存在したなんて意外でしかたなかった。じわじわと広がる黒い気持ちがなんなのかさっぱり気がつかないまま早足で店内へ続く廊下を歩いた。





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*091205  ひと騒動の始まり。夢菜も鈴木もオリキャラですが割と重要ポジションです。さて、タケメンのもやもやとした気持ちはどこへ広がるのか。