こちらの世界に来て幾日たっただろうか。当初こそ近辺の散策に勤しんでいた竹谷であったが、後に久々知は彼女と共に大学と言う名の学校へ通うようになってしまったので、かなりの暇を持て余していた。借りてきた書物―恐らく、我が身に降りかかった不可解な事件の解決の糸口となるであろうことが書かれていると予想されたもの―も、既に目を通してしまったし、その上、なにか特別な手がかりになりそうなことは書かれていなかった。目がさめれば全て夢であった、と期待して毎度夜を超えるがそれは全く期待できず、ただ現実が過ぎていくばかりの毎日。 そんな中で、新しく起きた変化がバイトを開始したことであった。とりあえず無一文の身で何から何まで彼女の世話になるわけにはいかない。それは自尊心を傷つけられるというよりもむしろ現実的な金銭面からいって不可能であるときっぱり言い渡されているため仕方のない事実であったのだが。レストランという飲食店で彼女がバイトしていることから久々知と共に先週からそこで働いている。腹の傷も大凡回復し、もともと体力だけは無駄に有り余っていた彼なので動作をカタカナ文字の料理名を覚えることには苦労をしたが、いざやってみると甘味茶屋となんらかわりはせず、割と気楽に馴染めることができた。また、バイトをすることによってより深く現在のことを知ることができるし、客の会話の中から読み取れることも多くあった。金銭の数え方には幾分かまだ不可解な面があったのだが―すかさずサポートに回ってくれるのおかげでなんとかなっているというものだ。 「あー寒い」 ふる、と体を震わせる。本日は4限、5限に講義が詰まっているので午前中は久々知と共に図書館へ行き、やはりなんの成果も上がらないまま昼を食べしばらくして2人は大学へ。竹谷は寒々としてきた外へ出るのも億劫で彼女の私物からほっぽりだしたゲームというものをやり進めている。中々面白い。モンハン?モンハンっていう名前だったっけ?けれども、ぬくぬくとした部屋から強制的に出させるといわんばかりに携帯電話が鳴り響き、晩御飯の買い物をしてくれと指令が出た。スーパーに足を運ぶのはもう何度も繰り返したのでできるとみなされてのことだろう。今日の晩飯は、と問えばシチューというまた珍しい言葉が返ってきたので少しばかり楽しみである。にもらったマフラーをぐるんぐるんと首に巻きつけ、早足で足を進めた。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、ブロッコリー、ホウレンソウ、鶏肉、えのき、…何ができるのか想像もつかない。 「うーん」 ひょいひょいとそれらを買い物かごに入れながら溜息をつく。どうしたものか、と。一向に帰る手だてもまた同時に帰れる兆しも見つからない。久々知は久々知で大学、という名の機関に興味を示しており本来の帰る手だてを見つけるということよりもむしろそちらの方へ意識が向いているといっても過言ではなかった。一日目に何が合ったのか知らないが、そこに通う前と通った後では明らかに顔つきが違ったのである。どこか、考え深い表情を浮かべていたように思うがはっきり詳しいことを聞いてはいない。それゆえに竹谷も大学へいってみたいと言えば、彼女いわく「私が悪目立ちるするから嫌だ。」の一点張りだった。幾度かこっそり忍び込んだこともあるのだが形式的には忍術学園となんらかわりはない。学問が違うだけ。ただ、あまりにも知識が乏しいためまともに受けていても理解の範囲を超えており自分にとっては眠くなるだけだった。久々知はあの講義のどこに惹かれたのかまずそこから理解できない。しかし、こうして知識もえないまま無駄に時間を過ごすわけにはいかず―心のどこかで焦燥が募っているのだろう、落ち着かない日々が続いた。 (これからどーっすかなあ) 昔に比べ近いこの空を見上げて白い息を吐いた。 「っと、すいません」 そうしてぼーっとしたまま道を歩いていたせいだろうか、道端ですれ違った女の人に気がつかずそのまま肩をぶつけてしまった。ぽろっと相手側の鞄が落ち、ばっさりと路上に書物がばら撒かれる。女性は慌てて「こちらこそ、よそ見をしていて…!」と焦ったような声で地面に広がったそれに手を伸ばした。 「これで全部ですか?」 「あ……はい、ありがとうございます」 竹谷は数冊自分の近くにばら撒かれてあったそれを拾い、彼女に手渡した。律儀に軽く体を折り曲げて返答をするさまに丁寧な人だなと思いながら、ちらりと手元の本に目を移す。見たことのある書籍に思わず小さく声が漏れた。 「もしかして、あそこの大学の学生さんですか?」 「そうです。え……っともしかして、貴方も?」 「いや、俺じゃなくて知り合いがそこに通ってて、その本を持っていたのを知ってたんで」 「そうなんですか」 彼女の家は大学の付近であるので、スーパーの帰り道に大学生が多く行き来していてもなんら不思議はない。その事実に遅れて気づいた竹谷は、何を阿呆なことを聞いているんだと少しばかり後悔した。けれど、彼女はただくすりと笑って竹谷の顔を見つめた。 「その知り合いってもしかして、、じゃないですか?」 「え!……なんでわかったんですか」 「そのマフラー。私がに編んであげたやつなんですよ」 なるほど、と竹谷は零した。確かに均一な素材が多く使われているこの世の中の衣類の中でこのマフラーだけは網目がところどころ大小の違いがあった。何も他人にプレゼントされたものを自分に貸さなくともよかっただろうに…と零しながら、困ったようにぽりぽりと鼻を辺りをかいた。どうやら、彼氏だと勘違いされているようだ。明らかに目の前の人の目つきが変わったがどう弁解すればいいものか。一緒に住んでいることがばれてしまっては怪しまれるだろうに―ここで変に関係を否定するわけにもいかず、好奇心の含まれた瞳に苦笑いを浮かべただけであった。 「詳しいことはに聞いてください」 と、一言つぶやき全ての責任を彼女に丸投げしておくことも忘れずに。先を急ぎますので、と言えばまた謝礼の言葉を述べた後に彼女は忘れていたといわんばかりに一言告げた。 「のこと、よろしくお願いします」 「そりゃ、こちらこそ。よろしくしてやってください」 よりによって最後に告げるべき言葉がそれか、と竹谷は突っ込まずにはいられなかった。すれ違った後に堪え切れず笑いが漏れてしまったのは仕方ないという一言で片づけられることだろう。 「ハチ!」 ばたーん、と勢いよく扉が開く。どたどたとした足音と共にがすごい形相で帰ってきた。鬼に非ずもあながち間違いではない、といった表情だろうか。隣にいる久々知が酷く呆れたような顔をしているのも同時に目に入った。ぬくぬくとモンハンの続きを繰り広げていた竹谷が、んー?、と生返事を返すとぎゅうううと勢いよく首を締め付けんばかりに拘束された。何事だ、この慌てようは。 「律子にあらぬ誤解させてんじゃねぇよこのアホ!」 「ちょ……おまっ!」 されどそこは忍。一瞬のうちにくるりと彼女の体は反転し、逆に取り押さえられてしまった。あまりにもその動作が綺麗だったので彼女はポカーンと大口を開けて天井に変わった視界をしばらく見つめていた。反射神経で行った動作だったがもちろん手加減してある。しかしそれは一般人のには初めての体験でしばし唖然としたのちに、そろそろと顔を竹谷の方へ向けた。 「本物の忍びなんだよねえ……やっぱり」 「うん、まあ、それはそうなんだけど。何があったんだ?」 「あっそう!ハチ、律子に彼氏だっつったでしょ?もー散々からかわれたんだから!学校では公然と久々知とのこと噂されてるから二股だなんだの言われたりとかするし……。だからハチ連れて行くのやだったのに何見つかったんだよコノヤロー!」 「知るかよそんなこと。買い物頼んできたのはそっちだろ?」 「そうだけど!彼氏っていうの否定してよ!私がすっごい嫌な女になるからさ」 久々知と二股かけてる淫乱女とかいわれちゃうんだよ、と涙ながらに零す彼女にぶふっと竹谷が噴き出した。正直なところ全くそんな小悪魔な女には見えやしない。 「安心しろ、全くそんな風には見えないから」 ぴしっと言い切った久々知の言葉にますますぶはっと大口を開けて笑う竹谷であった。さすがに久々知にそんな失礼なことを言われるとは思わなかったのだろう、それはそれで酷い、と不満そうな顔を見せていた。どうしたいんだ一体、と言いたくなる。 「てか、腹減ったからさっさと飯作って」 「じゃあ迅速に作るために洗濯物の取り込みをお願い、竹谷くん!」 はあ?外寒いじゃねえか、と言い返す間もなく、彼女は久々知はこっちで料理のお手伝いしてなーとマフラーを外したばかりの久々知を廊下へ引っ張り出す。けれど、この会話一つ一つが幼いころの自分を思い返されてなんだか懐かしくなるような空気だった。―それはもう、体験することなど無かっただろうと思われる空間。笑い合っている久々知の笑顔が胸に響いた。生温いじんわりとしたものがこみ上げてくる。いつまで続くのだろうか、この時間は。竹谷は相いれない表情をしたままベランダへと足を進めた。 |