時刻は十二時を回っている。そろそろと家の鍵を捻った。この時間帯ならばとっくに彼らが寝静まっているだろうという配慮をしたうえでのこのコソ泥みたいな動作。私にしては気遣いができているのではないだろうか。バイトとしてレストランで働くようになってからカスタマー視線ではなにしろ別段気にしなかった定員さんの気配りというものが手に取るようにわかってきた。いつも苦労していらっしゃるんですね…と全国の接客業を営む方々に平伏さんばかりである。普段ならば二十四時間営業といえども深夜スタッフと交替するこの場面であろうことか遅くまで働かされてしまったのである。受験勉強シーズン真っ只中だからだろうか、高校生が結構遅くまで居座っているのだ。レストランといえども夜遅くなれば客足は少なくなるし、周りは似たような境遇の者が多いので割かし静かに勉強できるのだとか。営業妨害ともいえず―かつては彼らのような受験生という立場だから尚更―仕方なく遅れてくるスタッフさんの埋め合わせのためせっせこ働いていた。ふん、深夜手当でるからいいもんね。さて、と凍えきった体が室内に入ることで風から解き放たれ嗅ぎ慣れている匂いにほっとした。ブーツを脱ぎながらお風呂どうしようかなーと思慮をめぐらせているとカラカラとまっすぐ廊下を続いた先にあるドアが開いた。竹谷だ。 「おっ!おかえり」 「……ただいま」 私は小声で久しぶりに呟くその言葉を言い返した。実家を出て一年半、誰もいない部屋に帰ることに慣れていた私はこうして迎えてくれる言葉を耳にする機会など滅多になくて。忘れてしまったかのように少し考えて放ったそれに若干の照れくささを感じた。不思議な気分である。少し前はそれを言うのが当たり前のことだったというのに。ハケがない声色にん、と首を傾げた竹谷ではあるがそのまま敢えて何も言わずに冷蔵庫のドアを開けてお茶をごくりと飲んでいた。―どうやら私を出迎えるためにこちらに出てきたわけではないらしい。じいんとした私の一瞬の感動を返せ!…とも言い返す力すら根こそぎバイトに費やしてしまったので何も言わなかった。そのままとりあえずは自室へ向かおうと冷たい廊下の上を歩く。部屋は暗かった。 「もしかして、久々知は寝てる?」 「ああうん、寝てるとは思うけど。気にしなくていいぜ。どうせ浅い眠りだろうからすぐ起きる」 「え?」 「忍者って熟睡しない性質なんだよ」 人の気配が近づくと勝手に目が覚めんの、と竹谷。確かに何日も戦場に籠ってたりする時に眠りこけていてぐっさりとかそんなシチュエーションであの世行きになるのは恥さらしにもほどがあるだろう。その点は武士とかお侍さんでも一緒だろうし。精神的に敏感にならざるおえない状況から自然とその癖は見に着くらしい。逆に身に着かなかった連中はとっくにあの世行きか才能がないからと途中で挫折していく。だから、気にせずに入って来いよとでもいいたいのだろう、カラカラと先にドアを開けていた。けれど―ここは全くの合戦の最中ではなくむしろそのような危険などほぼ皆無に等しい空間でありそのことを彼らも既に知識として身につけているはずなのに。もはやそれは抜け落ちることのない感覚となっているのであろう。なんと声を掛けていいかわからず、あーうん、と魔の抜けた返事しか返せない私はその言葉に黙って従った。ちらちらと見え隠れする彼らのギャップに私はただ思考をめぐらせる。とさっと鞄を降ろし電気毛布の敷かれた床に座り込むとふあーという欠伸がこぼれた。つられたように今度は豪快な欠伸が隣から聞こえた。欠伸ってうつってしまうものなんだよなあ、とくすりと笑みがこぼれる。 「ハチは寝てなかったの?」 「俺は喉乾いて目ぇ覚めただけ。ホラ、しっかり布団敷いてるだろ」 「確かに。でもこういうこと偶にあるかもしんないから、そういう時は今日みたいにさっさと寝てていいからね」 一応、連絡はしておいたし少なくとも子供ではないのだからきちんとそこは判断できるとは思っているが。バイトの後そのまま流れで飲み会、なんてパターンも無くはないのだ。帰りが5時過ぎることだって年に数える程度くらいではあるが無くはない。それにこれからは忘年会シーズン。機会も増えるだろう。 「でも大変だな、も。明日も大学だろ?」 「ああうんまあ、明日は午後からだから気にしなくていいのよ」 ではないとそう安々と残業を引き受けたりはしない。そういって苦笑いすればくしゃりとした微笑みが竹谷から漏れた。初めて会ってからまだ数日しか経ってないけれど、竹谷の表情がどんどん優しくなっているのが自惚れかもしれないけれどなんとなくわかる。果たしてそれは見知らぬ男を二人も拾った自分を気を使っているのかそれとも気を緩ませて置いて怪しいか否かを探っているのかは定かではないが、正直出会ったころのようなギンギンに殺気を込めた視線を送られるのはもう勘弁だった。それに、どんな人であれ自分の帰りを待ってくれる人がいるというのは嬉しいものなのだ。 「……遅くなって帰ってきても、部屋に人の気配があるだけでほっとするんだよね」 「おかえり」という言葉一つでこうも安心するような気持になるなんて以前なら思わなかった。バイトが長引いてクタクタになって帰ってきて、しいんとした部屋に入るのはとても寂しいのに気がついたのは一人暮らしひゃっほいと満喫しながらもそのテンションが段々と落ち始めてきた冬の始めだっただろうか。ちょうど今頃の季節。照れくさくなってはははと誤魔化し笑いを返すと竹谷がぽつりと口を開いた。 「それ、なんとなくわかる」 え、と言葉に詰まったのは一瞬だけだった。すぐにポンと頭に手を置かれてぐしゃぐしゃに掻き乱される。いつか私が竹谷の髪の毛を雑巾のようだと比喩したことを根に持っているのではないかというくらいぐちゃぐちゃにされた。そしてそのまま竹谷らしい―よく同人誌で見るような眩しい笑顔を浮かべて背中を押される。 「さっさと風呂入って来い。色々酷いことになってるぜ」 「……いや明らかに髪の毛を酷くしたのはハチだけどね」 じと、と恨みがましい目線を送っても相変わらずの表情。ただ、その顔の裏に隠された想いに気がつかないわけもなく、適当に下着と寝巻をタンスから取り出して風呂場へ向った。先ほどの竹谷の一言が胸に刺さったまま。さすがに湯船はもうひんやりとしていたのでシャワーにすることにした。冬でもアパート暮らしだと室内の温度が聊か高いのでシャワーでも事足りるのがありがたい。引っ切り無しに響く水音をBGMに淡々と体を洗った。 (ハチの表情が、なんか、……) まだ出会って数日の関係である。そこまで奥深く理解することなど到底できるような日数ではないことを前提しても、酷く心揺さぶられる気持ちがした。切なくて、でもどこか、懐かしむようなそんな表情だった。一体彼は何を想って先ほどの一言を呟いたのだろう。そしてなぜ失言とばかりに話題を打ち切って私を部屋から遠ざけたのだろう。まだ、知るには早すぎるのかもしれない。 「……どっちにしても、あんな寂しそうな顔をしてほしくはないな」 それが今私に言える気持ちの中で一番大きなものを表していた。ただの私の理想なのかもしれない。所詮他人事なのでそこまで口出しする権利はないのかもしれない。だけれど、傍にいる人が友人が悩んでいるときにこんな私でもほんのちょっとでもその気持ちを緩和させることができるならそのときは進んで動きたい、というのが私の本音でもある。全身さっぱりと洗い終えた後にぱんぱんと両頬を二回に分けて軽くたたいた。それはこれからの自分へのエールだった。 |