*(若干)久々知視点

 こちらの世界に来て3日が経った。朝目覚めるたびに元の世界に帰っているのではないかという期待をかけていたが一向にその気配はなかった。ただいつものように朝日が昇り、目の前に狭苦しい光景が広がるのみだ。久々知は、当初こそこの自分たちが生きてきた時代とこの時代についての差異をひしひしと身に感じてはいたが連日テレビというメディアから仕入れる情報によって大体の構造が読めてきた。バラバラになっていた日の元は日本として統一され、国政を一握りの代表がまとめて指揮を執る。また、さまざまな場合における対処法として法律というものが制定されている。そして今はまさに国内だけでなく見たこともない世界―それこそ、異国の地とされる国外との外交も同時に行われている、と。頭が痛くなるようなことばかりではあったが、確実にそれを情報として受け止めていたのも事実である。そこに価値観の差異があるとはいえ。元の世界に何時帰れるのかわからない、とはそう断言する。少なくともフィクションの話では一カ月そこらで帰るのが落ちだが、これはあくまで現実。いかなる現象が生じて彼らが時空を超えてやってきたのかは説明がつかない。そもそも、神隠しなどが信じられてきた過去の住人である久々知たちでさえ忍者―つまりは科学的な根拠が成り立つ上での職業についているのであまりにも非科学的なこの現象にどうやって対処すべきか、頭を抱えてきた。だからこそ、彼は現実を見るためにまずはこの国最高の学問機関である大学へと足を運ばせることにしたのであった。

 竹谷は本人の希望がないため家で留守番を任された。しかしながら彼のことなので早速使いこなせている携帯を片手に散歩でもなんでも散策するに違いない。苦い顔をしていたではあったが、危険なことからは身を守るすべがついている忍者である、という主張を受け入れた上で遠くに行かないこと、地図を必ず確認すること、むやみに飛んだり跳ねたりしないことを約束させられた上で彼の外出を許可した。そして、今か今かと玄関で待っている久々知にも苦笑いをして彼にも、絶対過去その他忍者に関することを口にしないこと、を約束させていた。

 大学とは彼が想像したよりもとても広い建設物だった。図書館という場所もそれなりに広く、また立派な建物ではあったが大学は規模が違う。それもそのはずで、彼女が通う大学は国立大でありかなり多くの学部が揃っている。敷地内では毎年新一年生が迷子になってしまうほど。は無言で驚いている久々知の袖をひっぱりながらいくつかある建物の1つに入って行った。数列並んでいる長い机の右後ろを陣取ってそこで2人並んで座った。当てられにくい場所である。

「今日は英語、社会心理学、統計学、と1限空いて法学の講義があるけど、久々知全部出るつもりなの?」
「とりあえずは。その学問の名前を聞いてもサッパリわからないし」
「まあ、いいけどさ。大人しくしとくんだよ。当てられたら勝手に答えないで私に聞くこと。いいね」
「わかってる」

 そういったっきり久々知を放置して英語の課題をやり始めた彼女を彼は教室の中を見渡すふりをしてひっそりと眺めた。まだ出会って3日の女性―。初めは見慣れない着物を着ておりどこの間者かと焦ったものである。けれど、その外見からしてもスキだらけの一般人。ただ、少しばかり性格が変わっていて―というのは竹谷の言葉ではあるが彼らが過去の人物であるということを案外平静と受け止めていた。恐らくあの場にいたメンバーの中で最も早くその結論にたどり着いたのではないだろうか。その冷静さが自分がいまここにこうして平然と現代に溶け込めている一番の理由でもあるのだが彼はそのことに大きな引っ掛かりを覚えていた。もちろんそれは竹谷も同じこと。冷静すぎる―と。どのような感覚なのかは知らないが少なくとも彼らの世界の一般人は過去から来たという人物に出会ったならばそれこそあのように平静な態度を取ることは難しいように思う。そんなことが起きたことがないので知りはしないが。それにもし、自分が過去から来た人物を受け止める側であったならあのような対処はできなかったはずだ。しかも、独身の女性の元に2人の年頃の男性を泊めることなどありえない。けれど、一度化けの皮が剥がれた彼女は当初の冷静さはどこへ行ったというくらい普通でむしろ明るく親しげな一般人らしい女性だった。どちらの面が本当の彼女なのかはわからないが、連日残っていたという課題を必死こいてやっている彼女には不信感も薄れるといったものだ。黙々とシャーペンなる筆の変わりとなるものを動かしている彼女は本来なら自分とは関わり合いがなさそうなほど平和な雰囲気を醸し出していた。

「あー、ちゃん誰やこのイケメン!」
「……夢菜」

 いきなり、目の前に甲高い声が上がった。彼女が驚いて顔をあげたのでそれにつられて自分もそちらの方へ視線を向ける。そこには髪の毛を金色に染めた女性が立っていた。近しい色をした髪の毛を持った男が過去にもいたがそれよりもさらに光沢が増している色であった。じろじろと珍しそうに自分の顔を凝視した後に、はっと声にならない声を上げる。なんか誰かに似とるな、とぽつりと零した言葉を最後に彼女は夢菜と呼ばれた女性の腕を取ってカツカツと教室から抜け出た。久々知も慌てて跡を追ったら、渋い顔で、なんでついてくるの、と一喝された。

「なんでって……離れるなって言ったのはそっちだろ」
「トイレ……じゃなくて厠にいってくるからそこで待ってて!絶対に話しかけられてもしゃべらないでね」
「なに、急にカリカリしておかしな奴だな」

 がこのように慌てたのには訳があった。夢菜と呼ばれた女性はと同類のタイプであったのだ。つまりはオタク。しかもコスプレイヤーである。ということはにんたまのジャンルを知っていてもおかしくはなく―最近の花形であるのだから特に―さらに久々知の顔を見て誰かに似てるという発言まで醸し出したのだ。かなりの焦りが彼女に募った。夢菜は、ああせっかくのイケメンが、と名残惜しそうにそう零していたがトイレまで連行されてその不満をにぶつけていた。

「さっきのカッコイイ人誰なん?初めて見たわ、あんなイケメン。それに……どことなく久々知に似とる!」

 キラキラと目を輝かせた夢菜は今度コスプレしてくれへんかな、と既に夢見心地だ。ひくりと顔が引きつった。彼女とはどちらかというとジャンオタとして付き合ってきたので他ジャンルではどこまで許容範囲があるのか深く知らない。しかしながら、本物の久々知を見て数分で彼のことを暴くとは―かなり精通していると見てもよい。これは面倒なやつに見つかった、と内心は汗びっちょりであった。とりあえず、適当な言い訳をして彼女をなだめて置く。コスプレとかそういうワードを彼の前で一切しないということを約束させて。オタクが世に割と一般的に後悔されるようになって早数年がたつがいまだにその地位の向上はないことも含め、彼にがオタクであることを悟られたくはないためパンピーで通していることを必死に説明したかいがあってか、夢菜は残念そうにしながらもあっさりオッケーしてくれた。だが、今度は久々知がの彼氏もしくは思い人であるという余計な勘ぐりを深めてしまったらしくによによとした笑顔が顔いっぱいに張り付いていた。あわよくば自分もいい男を紹介してもらうつもりなのだろう。いい男の友達はいい男。世の中の類は友を呼ぶという諺を口に意気揚々と講義室へ戻った。が講義室に戻るとそこはもう人であふれかえっていた。早めに席を取っておいてよかったと安心する。けれど久々知のいた方面に女子のたかりができていることにまた大きく頭を抱えたのであった。顔がいいのも悩みの原因になるものだ。





 3限までの講義はスムーズに終わった。英語、社会心理学、統計学、どれも久々知にとっては学んだことのない学問ではあったがそれなりに楽しそうに受けていたようであった。特に統計学には昔の数学の知識もあってか講義のほとんどについていけていたようである。4限は大学内にある図書室でタイムスリップに関わる文献をいくつか選んだ末、カフェテリアで一服をとりながら読み進めていた。一時間半とは案外すぐ立つもので、今度は本日最後となる法学への講義へと向かった。配られたプリントに目を通しながら、久々知が法学が何時頃にできたのか、と彼女に尋ねる。元々法学部というわけでもない彼女にその質問は酷であり、少なくとも久々知達が住んでいた時代にはなかったってことだよねー、と少々ずれた返事が返ってきただけであった。役に立たないな、と内心思っていたことをふうんという返事で誤魔化し何の気なしに配られた半枚のプリントに目を通した。

「なぜ、人は人を殺してはならないのですか」

 思わず口にしてしまっていた。この講義ではこのように出されたお題に関して、本人の知識をもって答えるという論述形式の初回編のようなものが講義の最初に配られる。その答えに誤りも正解もなかった。にとっては幼いころから人が人を殺すことはダメだと教えられていることからそれは倫理的にむしろ道徳的にしてはならないことだった。けれど―過去からやってきた久々知にとってその文句自体が衝撃的なものであった。彼は忍者―人を殺すことをむしろ仕事としているような役柄なのである。もちろん、当時の道徳からしても人が人を殺めることが正当化されていたわけではないのは確かではあるがそれを裏切っても忍者というものはそれを続けていかなければならない職業だったのだ。忍術学校で初めて人を殺めてから数年たち―改めて考えることも少なくなってきたこの頃になって再び現れてきた現実との衝突に彼は困惑した。

「……なぜ」

 ぽつりと零したその言葉を聞きつけたは少し考えるようなそぶりを見せた後、小さくつぶやいた。

「無理に書かなくていいよ。出席変わりになるから、久々知は提出しない方がいいくらいだし」

 なだめるようにそう呟いた彼女には彼の考えの一部が漏れているかのようだった。結局講義が終わってもその紙は白紙のままでぽつんと机の上に残っていた。けれど、久々知の心には先ほどの台詞が強く根付いていた。なぜ、人は人を殺してはならないのですか。その、人が人を殺してはならないと決定づけられた文面が酷く印象に残ってしまっていた。後にこの単なる好奇心で通い始めたこの講義が彼の人生を大きく左右することとなるのである。
 




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*091115 もし、現実にきた彼が人を殺めることに対する重さを取り上げている講義に立ち向かう場面があったなら何も言うことができないし、言う資格はないだろうと。