その日は確か豪雨だったような気がする。私は5限目の授業を終えて帰路についているときだった。ピカリ、と眩しいものが辺りをチラつき数秒もしないままごろごろと落雷が落ちる。…近いな、急がなければ。傘をさしたまま早足で大学から5分も満たないアパートへ足を進める。雷だけではなく風も酷く肩から下はびっちょりと雨でぬれていた。この分だと今日のバイトは無しだろうな、と心の隅で思いながらも今月の残高を思い出してはあと大きくため息をついたのだった。 ガチャリ―と、築3年の真新しいアパートの扉を開けた。雨が降っている上に既に夜なので部屋の中はしんみりと肌寒かった。ぬれた傘を外で簡単に水分を落とし、玄関先に傾けて置く。そのときチラリと中を見たのだがそのときは別段変わった様子など無いと思っていた。けれどそれは玄関から自室の間に区切られたドアが一つ存在することから奥が全く見えなかったからだ。チャリと高い音を響かせて鍵を玄関の横へ投げると、早くストーブをつけようとスタスタと自室の扉を開ける。そして、次の瞬間あんぐりと大きく口を開いたのだった。 「……誰」 真っ暗な暗闇の中真っ黒の装束を着た2人の少年に募る不信感は半端なものではなかった。泥棒かと緊張させたのも束の間、玄関先のチェーンはしっかりかかっていたし、ベットの先にある窓もイチミリ足りとて割れてはいない。もちろん、鍵もしっかりかかっている。ならばなぜ彼らはここにいるのだろう。今朝のことを思い起こすが変わったことは一切なかった。いとこがこっちに来るという連絡も受けてはいなかったし、第一私のいとこは全て女だ。ぱちぱちと目を数回瞬きしたりこすってみたりしてもその姿は消えてはくれない。幻ではないらしい。幸いだったのは双方とも眠っているのか気を失っているのか物音にも顔をあげなかった。口先しかでていない二人の顔をじろじろと眺めていると、はた、と先日買った本のことを思い出す。ただの本、というには語弊がある。所謂同人誌というものである。その中の一冊を手にしたとき、似ている、と思った。にんたまというジャンルの5年生、竹谷と久々知に。私は世間的には白い目で見られることが多いオタクという存在であったが、同人誌だけではなくドリーム小説にも手を出している方だった。だからこのノリにもなんとなくついていける。そうこれは所謂逆トリップなどというドリームジャンルには王道とも言っていい展開で、まさにそれが今目の前で起きている。 「なーんて、んなわけないか」 ぼりぼりと頭を掻きながら、苦笑いをした。とりあえず、どうしようかこの不法侵入者。泥棒としては格好も真っ黒闇夜に紛れて万歳、と疑うべく格好をしているがしかし、通報するには警察も戸惑うような嵐の夜。それに加えてこのお兄さんたち、目もとしか見えないがそれなりに若く、しかもかっこいい。どんな経緯があってこのような大学生が多いアパートに忍び込んだのかは知らないが、無防備に眠りこけているし、なんとなく狙っているのだろうかにんたまコスプレに興味津津だ。写真を撮らせていただきたい。携帯でぱしゃりと数枚収めた後―のちの証拠写真にもなりうることだし―あることに気がついた。デカイ方、つまり、竹谷と思われる人相のお兄さんの腹に赤いものが見えたのだ。暗がりなのではっきりとはわからないのだがその不気味な色合いからして恐らく血であることに間違いはなさそうだ。鉄くさいにおいがかすかにする。はっと顔が蒼白になる。 「凶器を持っている可能性あり……ってやばくないか」 やっぱり警察に連絡した方がいいのかもしれない。ぎゅっと携帯を握りしめ、とりあえず自室から出ようと踵を返した。そのとき。ふわっと私の首元に嫌な冷たさを感じた。 「何をやってるんだ」 ギギギ、という音でも鳴るかのように機械的な動作で横に顔を振り向きながら目線は下へ移す。クナイ、というのだろうか、鉄の鋭い塊が私の喉元に当てられていた。そして、横にいたのは久々知似の青年。ぎらぎらとした殺気を放っていて、もう警察とかにんたまとか怪我とかそんなことは頭から飛んで行ってしまった。殺される。竹谷のような青年を傷つけたのもこの人だったのかもしれない。明らかに本人のものではないぬめっとした感触が触れた指先に当たった。彼の着ものに付着しているに違いない。発する言葉もないままがたがたと身動きがとれずにいると、別の声が聞こえた。 「……ここは、どこだ」 竹谷のような青年が目を覚ましたのだ。死んでいなかった上にあの腹の太刀傷があったはずなのにひょいと背後で立ち上がる音がする。彼は助けかそれとも仲間か。祈るようにこの状況がより安全かつ私に被害がないものと変わるようにぐっと目を閉じたが、それは無駄に終わった。私と背後の久々知の存在に気づいた途端、私に伝わる殺気が2倍へと増えたからだ。 「兵助、……ここはお前の城か」 「馬鹿なこと言うな、こんなところ俺も知らない。気がついたらここにいた。んでこの女もここに立っていた。疑うべくはまずはこの女だろう」 「……ひっ」 すっとクナイが横にずれた。共に首の皮膚がゆっくりとしかし確実に傷つけられる。一滴の血が私の鎖骨へと流れて行った。頭がおかしい、コイツら。恐怖で涙を垂れ流している私を見てか、竹谷っぽい青年がしゅっと俊敏な動作で私の目の前に降り立ち、ぐいと顔を近づけた。 「ここはどこだ?」 「……」 「兵助、クナイを降ろせ。まともにしゃべれていない」 見たところ、変な格好はしているが一般人じゃないか、と彼は苦笑する。兵助、と呼ばれた青年はすっとクナイを降ろし、その瞬間私の目から涙が滝のように流れた。はあはあと肩で息をする。ずっと呼吸を止められていた気分だ。呼吸が楽になるまで彼らは無言のまま私の様子と、そして部屋を物珍しそうにぐるぐると眺めていた。何かがおかしい。この人々は目的が合って私の部屋に忍び込んできたのではないのだろうか。ここはどこだなんて聞かれるのはお門違いだ。が、反論するだけの度胸を持たず、目が合った竹谷っぽい青年はにこっと微笑んで再び同じ質問を繰り返した。笑った割にはその笑顔は凍るくらい冷たく、状況が更なる悪い展開へ転んだことが一発で理解できた。 「ここは……私の部屋です。8畳の大学生が住まう、しがないアパートです」 「○×城の近辺では?」 「……そんなお城、この近くにはありません」 ○×城なんて聞いたこともない。いよいよ気が知れたのか、それともにんたまに成り切っているのか達の悪い冗談だと笑ってしまいたくなった。けれど、それをさせてはくれないほどの鋭い殺気が辺りを充満する。成り切りにしては恐ろしすぎる。私の答えに不満を感じたのか、久々知に似ている青年が冷たい手を首元に這わせた。今度こそ、死ぬ。けれどそこでタイミングよく彼はあっと言葉を荒げた。 「なんだこれは!」 竹谷に似た青年には私の後ろ、つまりカーテンの先が目に入ったらしい。茫然としたまま、ふらりと足がそちらへ向かっていた。首元から手が離れ、彼もそのあとを追う。二人とも今度こそあからさまに絶句していた。嵐の中に照らされるネオン、大きなビルやマンションが並ぶ住宅街。それを見て酷く混乱したようだ。比較的、攻撃を加えてこなかった竹谷っぽい青年が今度は慌てふためいていた。ぎっとした視線を私に向ける。 「薬を使ったのか!」 「何を言っているのかわかりませんけど……普通の街です。このような場所は当たり前です。私からすれば貴方達の動揺の方がおかしい。何をそんなに驚いてるんですか?」 「……はっちゃん、落ち着いて。一時休戦としよう。どうやら、これは俺の想定の範囲を超えている」 「兵助?」 休戦、という言葉にびくんと彼は我に返ったようだった。そして苦虫を噛むそうな顔つきで彼を見た後にぱっとその場に座り込んだ。ここは彼に任せるということか。ちろちろとまつ毛の長い目を私の部屋中に行き来させると、さて、と幾分か落ち着いた声色で彼は口を開いた。 「改めて聞こう。ここはどこだ?日の元か南蛮か?もしくはここは戦国ではないのだろうか?」 「ここは日本です。……戦国というのは今よりずーっと昔の話だったように思いますけど……」 嫌な予感が私の脳裏を駆け巡った。先ほど笑い飛ばしたあの考えが再び蘇る。逆トリップ。にんたま。そんな馬鹿な、と脳内で思っていたにも関わらず、彼らの様子が私の言葉で一挙に変わった瞬間になぜだかやっぱりと思ってしまった。そりゃ、クナイなんて物騒なものを携帯し、なおかつあのような殺気を投げかけることができる人物はこの日本には昔の忍くらいしかいないのではないのだろうか、という結論に達するのは至極簡単だった。受け入れられるかどうかは置いておいて。 「貴方の名を聞いても?」 「といいます。……貴方は?」 何か考えるようにそう呟いた彼に素直に名を告げると後ろの青年が顔をさらに蒼くした。名字を許されているということは相当な家の出でいらっしゃるのか、と呟いたのが聞こえる。は、と首を傾げたのも束の間、目の前の青年が驚くべき名を口にした。 「失礼した、俺の名は久々知兵助と」 「俺は、竹谷八左ヱ門と申します」 いきなりのその態度の恭しさに驚きを通り越してしまったが、それ以上に私を驚かせる名前がその口から飛び出てきたことに思考が停止してしまった。今、なんといったか。聞き間違いではなければ私の想像した通りの名前が漏れていったわけで……ええと、逆トリしてきたら一番初めにすることってなんだったっけ。散々、小説を読みふけっているにも関わらず全てを忘れてしまったかの状態でかしこまりひれ伏した彼らをじっと見つめ続けていた。 |