夢か否か。数刻前のことを思い起こしてみる。竹谷は目を瞑った瞬間のことを必死に思い返していた。それは本当に類いまれなること、というわけでもなかった。稲妻が辺りを走ったのだ。ただ、それだけ。それだけなのに自分はこうも見知らぬ世界に入り込んでしまったのだ。 ざわざわと風になびく木々たち。その合間に腰を降ろしながらくん、と匂いを嗅げばもうじき訪れるであろう雨雲の匂いがした。雨は血の匂いも落とす。帰り際には恐らく自分に都合のいい具合のどしゃぶりであるに違いない。けれど―長居は敢えてすべきではあらず、とっとと終えてずらかることが最上であることには変わりないのだ。密書の在りかとその隠し扉へのルートを脳内でもう一度シュミレートすると、すっと小さく息を吐き小枝を蹴った。任務の始まりだ。 思いの他、城内は静けさに包まれていた。満月の夜ということで暗闇での任務には適さないという安心感からだろうか。そんな月の些細なる光がプロの忍者にとってなんの妨げになろう。すたたたた、という軽い足音の元、軽々と天井裏へ忍び込んだ。あまりのガードの薄さに一瞬、罠ではないのかと疑ってしまうほど。けれど自分もこの道は長い。警戒に警戒を重ねた上で且つスムーズに竹谷は隠し扉への侵入を達成した。……静かすぎる、な。完璧なる罠か。引くべきかとも思ったけれど既に背後に気配が回っていた。手裏剣を取りだし、その方面へ投げる。すると、天井裏がひっくり返り床へと叩きつけられた。もちろん、そこは受け身を取って打ち身一つせず綺麗に着地した竹谷であったが敵の気配の薄さと俊敏さにひやりと汗が流れたのも事実。そして、同時に気がついたことがある。知っている。懐かしさを感じてしまうこの気配を自分は知っているのだ。遠い昔、というには短いけれど体感した年月は遥かに実質の数字とは比べ物にならないほど長かった。黒い塊がとさっと流れるような動作で落ちてくる。口布をまとった奴の口元が笑っていることに気がついたのはなんてことはない、昔のまま変わっていないからだった。久々知、兵助。元ルームメイトだった。 「久しぶり、はっちゃん」 大きなまつ毛が瞬くように揺れる。 「兵助……」 さて、4年ぶりの再会を果たしたところで懐かしみの会話が漏れるかと言ったらそういうわけにもいかない。互いに忍術学校を卒業し、プロの忍者として日々勤めている。久々知がどこかの城付きの忍になったという噂は耳にしていなかったのでいまだフリーのまま転々と各地をさすらっているのだろう。今まで顔を合せなかったことは奇跡に近い。そして今日という日に獲物が被ってしまったというわけだ。密書略奪―というこの巻物だけでどれだけの領地が手に入るのかそれは己の主が口を酸っぱくして言い聞かせてきたこと。渡すわけにはいかない。挨拶もそこそこに忍具への手が一挙に伸びた。カキン、と触れ合う冷たい鉄の塊。 「運が悪いな、俺も。よりによって兵助かよ」 「それは光栄な言葉だな。……かといって手を抜く気はさらさらないけど」 「っへ、言ってくれる」 竹谷がその言葉と同時に投げたクナイがすぱっと久々知の頬を掠る。つーっと赤い液体が線を描いた。一瞬、彼の動作がぴたりと止まり、にこっと可愛いくらいの笑みを浮かべた。思えば、学生のころから美人な造りをしていたがこの場で微笑まれるとぞくりと背を震わすような悪寒さえのぼってくるのだからたまったものではない。竹谷の思考は巻物奪還よりむしろ無事に生きて出られるか、の方へ集中しつつあった。彼の天才っぷりは学校にいたころから知っていた。否、近くにいた分余計にそれを感じていた。まず、実技で彼に勝ったためしはない。互角に渡り合えたのはこちらもスペシャリストの鉢屋のみ。けれど、引く気はさらさらなかった。同級生を手にかけることに躊躇いがなかったわけではない。しかし、これが忍の道。どちらかが隙を見せれば一瞬のうちに殺される。久々知も同様に手加減なしにお得意の剣さばきを見せている。どちらかと言えば至近距離よりも長距離でのトラップに自信のある竹谷にはいささか辛い状況であった。手元のクナイでなんとか応酬しながらも、背後に壁を取られ追い込まれる。首元に冷たい感触がした。死の温度だ。 「さよなら、はっちゃん」 躊躇いの無い言葉が囁かれたとき、ぴかっという眩しい稲妻が辺りを駆け巡った。 |