漆黒の闇の夜、は静かにその場を去ろうとしていた。ただの散歩だと言うには聊か怪しい格好だった。つまるところ、それは散歩と呼べるほど軽々しいものではないということだ。元々それほど私物があったわけではないけれど、五年もこの城の一角で暮らしているとなるとそれなりに物は溜まる。女中に気づかれない様にそれらをほとんど処分して、手にあるのは自分の忍具とささやかな金と一通の文だけ。は城仕えの忍でありながら今日限りで抜け忍となろうとしていた。ここまでの経路は首尾よくいった。まさか彼女がそうなろうとは誰も思ってもいないだろう。あとは見張りに立っている連中に気づかれない様、さっさと抜ければいいのだ。なんてことはない。組頭は今晩は任務に出ている。の動きを追えるものは少ない。そして更に彼女は五年も勤めていただけあってどこの守りが弱いのか、それも把握しきっていた。上手く抜けれるか、あとは自分の腕次第だ。

 新月とは、忍者が任務をするのに最も適した時期だ。城から出るのは思いの外簡単だった。が抜けたことが知れ渡るのは、早くて明朝。それまでにどこまで遠くにいけるか、が勝負である。変装をして一般民衆に紛れ込むという手だてもあるが、それほど変装術が得意ではないにとって至難のわざだった。

 その時、一つの足が彼女を追っていることに気がついた。段々と加速していく気配。それは知っているものだった。この世で一番わかりやすい気配といってもいいだろう。それほどこの五年間、近くにいた存在だった。ぱっと、目の前に一人の男が現れ、彼女の行く手をふさぐ。久々知兵助、その人だった。

 彼は、人生の中でも特別輝かしかった学園時代を共にした、所謂同郷の忍だった。学年も同じく、よく実習でも組まされたため互いの能力、性格、全てを熟知していると言っても過言ではない。こちらに入ってからも組まされることは何度もあった。パートナーとして恵まれていると思う。彼は実によくできた忍だった。だからこそ彼を敵に回す、ということは何よりも耐えがたく、同時に最も避けたい道であった。淡々とした目がの心を突きさす。何をしているのか、と彼は口にはしなかった。人が住んでいた形跡をなくした自室を後にし、ほとんど身一つで城から出ようとしている者がいたらそれは言わなくてもわかる。抜けるのであれば追うまで、ということだ。ぱちぱちとした大きな目が言わずとも攻めていた。何があった、何故、どうして、と。は真っ直ぐに彼を見つめながら、できるだけの笑みを添えて言った。こんな緊迫した彼を目の前で―それも、追われる身として―対峙することに内心とても焦っていたのだが、そんな態度はおくびにも出さなかった。

「ややこができたの」

 まだ膨れてもいないすっきりとしたお腹に手をやった。彼は虚をつかれたように息をのみ、信じられないような訝しげな視線を寄こした。

「ややこって……」
「先の任務の姫さまに兄君がいたでしょう、幾度か任務のために仕方なく。相当な手練れで苦労したわよ」
「そういうことを聞いてるわけじゃない」

 きつい眼差しがを襲った。低く鼓膜を鈍く震わせる声が彼女の耳に届く。目の前の彼は怒っているのか、驚いているのかどちらともつかない表情だった。

「産むために城を出るのか。抜け忍になると」
「そう。……このままここで産むと、血筋が城主を脅かす。男の子か女の子か、それはわからないけれど、殺されるのは目に見えてるわ。しょうがないじゃない」

 別に、相手を愛していたわけじゃない。ただ仕事が潤滑に行われるように、油断させるために自分の体を使っただけ。その結果、望んだわけでもない生命が体の中に息づいた。仕事と割り切っていたが、もちろんそうなる可能性も考えていなかったわけではなかった。どの忍びも或いは遊女もそれを覚悟して事に及んでいる。しかし、だからといって自分の体に宿った新しい命を簡単に捨てられるわけもなかった。沢山の人の命を奪ってきた自分が生命を宿し守ろうとしている……なんて、可笑しいと笑われても当然である。けれども腹の中に子がいるということがわかった以上、その子の父親が誰であろうとも母親はまぎれもない自分。産んで育てようという決意をしたのだった。そのためにはこの城を出なければならない。どこで誤魔化しても、最近、彼女には特定の恋人もいなかったわけだし、真っ先に疑われるのは落としたばかりの名家の忘れ形見という説だ。城主も組頭も敵の血縁者を生かしておくほど馬鹿ではない。それならば、抜けるしかない。わが子を無残に殺されたくはなかった。

「身籠っている体でこの忍隊から逃げれると思っているのか」
「確立としては四分の一だと。まあ、どこかの誰かさんが手を抜いてくれれば可能じゃないかな」
「抜けて、どこへ行くつもりだ」
「私としては、遠く離れた……そうね、極寒の地でも行ってみましょうか。この時期ならまだ奥州も登るに容易いわ」
「……お前な」

 久々知はうなだれた。彼女の気の抜けた数々の返答に呆れてものも言えないといった様子だった。

「自ら死に急ぐことはするな」
「これは私が決めたこと。それよりも同校のよしみで見逃してくれた方がよっぽど有難いんだけどなあ」
「そうはいかない。行くなら、全力で止めるまで」
「……久々知のケチ」
「なんとでも」

 彼女は少しばかり期待していた。このまま彼が見逃してくれればいいのに、と。しかし、それは五分にも満たない歩の悪い賭けだ。彼が同級生のよしみをとるかそれとも忍としての任務を忠実に行うか、それは当然後者を優先すると分かりきっていた。理由が理由だ。血筋を絶やすこと即ち一族の永久的破滅。後々の騒動になりたねない火種を安々と手放すこともできないだろう。腹をくくるしかない。彼はすらりとした真剣に手を伸ばす。もそれと同時に、足元に忍ばせてあった苦無に手を掛けた。久々知と技勝負に持ち込まれれば、こちらは随分と不利である。は実践には向かなかった。なにより男女差がある。元々くの一は情報収集や間者としての役割を求めて教育されている。実践ももちろん習うがそれはあくまで自分の身を守るためだけ。多くの場合、逃げるが勝ちなのだ。の戦い方を熟知している久々知なら一層容易い始末に違いない。―最も、とて彼がどれだけ真剣を使った技に長けており、かつどのような攻撃をしてくるか熟知しているのだが。

 静かな沈黙が落とされた。ぎらり、と鈍く輝く剣が一瞬の間をおいて、に降りかかろうと動いた。が、それは寸前で止まった。来るはずの攻撃に苦無を構えたまま怪しげに眉を顰める彼女に向って、彼は淡々と驚くべきことを口にした。

「俺の子として産めばいい」

 え、と間の抜けた変な声がでた。時々、周りも驚くようなことを突然口にすることがあった彼だが、この時ばかりはその次元が違う。ぱちぱちと瞬きしても彼の真摯な表情は一向に変わらなかった。

「……い、いくない、いくないよ!なにいってんの」

 真面目な久々知が決死のギャグを告げたのか、とこの雰囲気にそぐわないけれどもそのようなことを考えてしまった。いくらなんでもこの場にそのような発言をするのはあまりにも場違いだろう、と少し怒りすら覚えたが、彼は至って本気だといわんばかりの顔つきをしていた。

「まだ三ヶ月も過ぎてはいないだろう。それなら誤魔化せる。その子は俺の子だと、覆い隠すことは可能だ」
「浅はかな事を!第一、私と久々知がいい関係ではないことは隊全体が知ってるでしょう。何処をどう上手く誤魔化せるのよ」
「……否、そこが上手いこといけるんだよ」

 何を、と問いかければ曖昧に彼は頬を浮かせた。珍しく、羞恥という感情が入っているのか、普段ならはっきりとこちらを向く視線も宙をさまよっている。

「城主にも組頭にも、どうやら俺の気持ちはばればれだったらしい」

 このように甘い表情をする久々知をは初めて見た。情けない様な照れくさいような、年頃の青年の顔をしていた。もくの一であるが故に相手の媚や自分に気があるといったような感情には敏感な方であった。けれど、久々知がまさに自分にその感情を抱いているとは想像もしていなかった。彼も彼で忍びであるが故に感情を押し殺すことに長けているからだろうか。それにしてもトップの二人に知られているとはどういうことだろう、彼の言葉に疑問さえ浮かんだがそれを指摘するのは甚だしく場違いだ。なにより、も彼の言動に期待を持ってしまったのだ。

「貴方の真の子ではないのはちゃんとわかってる?」
「もちろん」
「そんな子の父親になるんだよ。一生隠し通せるの」
「俺は口だけは堅い」
「外見が著しく貴方に似ていないかもしれない」
「親子が似てないことはざらにあるだろ」
「……ちゃんと、愛してくれなきゃ、嫌だよ。この子も私も同等に愛してくれなきゃ」

 無理な事を言う、と彼は思っているだろう。彼なりの最大の情けの掛け方だと理解しているのに、それ以上多くを求めるなんて。久々知は言葉といった形で答える代りに、きゅう、と彼女の手を取って緩く微笑んだ。愛、と言い切れるのかはわからないが何か暖かいものが体の中にじわじわと流れ込んでくるような感覚を味わった。とても生ぬるくて緩やかだった。

「俺とは三ヶ月前に逢瀬を重ねた。……これは事実だよな?」

 怖いほど真っ直ぐ見つめられた。たった一瞬のことだったが、「ええ」と縦に首を振るまでに酷く長い時間が経ったように感じた。はそれを受け入れてしまった。溜まらず、涙が瞳からこぼれ落ちる。それは目の前にいる久々知に対してか、それとも生まれてくる子供に対してか、自分自身の瀬無さに対してか、全て含まれていたように思うが生身の人間の暖かさに触れた時壊れたようにぽろぽろとこぼれ落ちた。

「泣かないで」

 女子のように白い肌をしている指がそれを受け止めた。声にならない謝罪を繰り返す。わかってるよ、というように彼は緩やかに微笑んだ。そして、をぎゅっと抱きしめる。何もかもを包み込むような暖かさに、ふわり、と久し振りに力が抜けた。

「これは俺の勝手な行動だ。を傍においておきたいただの我儘だから」

 言い聞かせるように宥められている間に、彼女はことりと意識を失っていた。ここ数日間の葛藤の末の結果だろう無理もない。彼は彼女を抱きしめたまま、元来た道をたどった。月のない寂しげな暗闇が二人の行く末を追っていた。






貴方を守りたい、ただそれだけ


*100621 (いつもお世話になっているハコへ、感謝の気持ちを込めて。)