「列車が発車します。ご注意ください」
空調の利いた車内から降りるとむわっと太陽に暖められた暑苦しい空気が身体にへばりついた。村越は久しぶりのオフに気晴らしに出ていた。近場のピカデリーで映画でも見ようか、と。人に言うと意外だと言われるが、一人で足を運ばせる程度には映画を見ることが好きだった。
だが、駅の改札口を出て僅かに出たところで、背後からバサリと何か大きなものが分散した音が耳に入った。咄嗟に振り向くと地面には業務書類をまとめたファイルや化粧道具、文庫本、筆記用具など様々なものが散らばっていた。「ああ」と悲観的な声をあげる女性が慌ててしゃがみこむ。勢いあまって鞄の中身をぶちまけたようだった。村越は足元に飛んできたハンカチと化粧ポーチを拾い上げた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
茶色に染まった髪の毛をきゅっと後ろで結い、細身のパンツスーツを着こなしている女性。恐らく、村越と同い年かそれよりいつくか若いくらいの年齢だろう。恥ずかしそうに頬が仄かに赤く染まっている。往来の中で失態を犯してしまったのだがら羞恥に苛まれるのも頷ける。
手にとったものを渡しながら村越は奇妙な既視感を感じた。彼女にどことなく見覚えがあるのだ。しかしどこの誰であったかまでは解らない。恐らく同じ学校を卒業した人間だと思うがいつの時代に知り合ったのかすら浮かんではこなかった。
反対に彼女は村越の顔を見上げた途端、えっと目を見開いた。
「村越くん?」
彼女の呟きは人違いを懸念するような迷いがまるでなく、確信めいたものだった。村越は「ああ」と肯定の返事を返す。じっと自分を見上げる丸い目が細められるのを見て、村越もやっと彼女が誰か思い出した。中学時代の同級生だ。自分がまだ十代前半だった頃、よく眺めていた顔だった。
「私のこと、覚えてる?」
茶目っ気のある声で彼女は自分を指さした。
「今、思い出した」
「だろ」と彼女のフルネームを呼ぶ。彼女の頬はくいと持ち上がり、嬉しそうに綻んだ。
「覚えてたんだ。びっくりした」
此方の方こそ自分は彼女の記憶に残るような人間だったのかと正直驚いていた。どのような印象で彼女の中に残っているのか、それが気がかりではあったけれど。
「久しぶり。中学校以来だね」
「ああ。は、仕事の途中か」
「うん、外回りの帰り。村越くんは、今日はお休み?」
平日の昼過ぎにカジュアルな服装で出歩いている村越を見ては首をかしげる。村越は「そうだ」と頷く。土日祝を休日としない仕事などいくらでもあるだろうが、一般的な企業に勤める者にとっては例外的な仕事サイクルなのだろう。少しだけ不思議そうだった。
この人は中学卒業以降の自分についてどれだけの情報を持っているのだろう。大概、同級だった連中はプロに進んだことを知ってはいるが、彼女は聞いていないのだろうか。
「本当ならこのまま喫茶店かどこかで思い出話でもしたいところなんだけど、会社に戻らなくちゃなんだよね。よかったら今度改めてお話ししよう」
はさっと一枚の名刺を差し出した。村越は黙ってそれを片手で受け取る。工務店の営業課。営業職に彼女が付いているなんて少し意外だった。村越もたまたま財布に入れていた自身の名刺を差し出した。彼女はそれを両手で受け取り、「うわあ」と感嘆の声を上げた。
「サッカー選手になったんだ、村越くん」
「知らなかった?」
「うん。……ごめん、私サッカーには明るくなくて」
「いや、責めてる訳じゃないんだが」
村越は何気なく自分の腕時計に視線を落とした。二時五十分。観たいと思っていた映画は三時から。そろそろ行かなくては間に合わないだろうと思っていたとき、彼女も同じように腕時計に目をやっていた。「やばっ」と小さな呟きが聞こえる。
「また今度、ご飯でも!」
軽く手を振りながら颯爽とかけていく彼女に、同じく手を挙げて答えた。慌ただしい後ろ姿に、あの頃の少女の面影はなかった。
初恋の人。
の事を想像すると、次に浮かぶのはこの言葉だ。年少の頃からサッカーに親しみ、恋だなんだと騒ぐ周りを馬鹿にしてさえいた自分に、異色の感情を初めて与たのは彼女だった。
告白を考えたことさえなかった、ただひっそりと想うだけの初恋。そんな純真な時期が自分にもあったのだと当時の感情を思い返して、苦く笑みを零す。
ただのクラスメイトだったを意識するようになったのは、たまたま教室に置き忘れていた数学のノートを取りに戻った時だった。彼女は四階建ての校舎の窓から何かを見下ろしていた。開いた窓枠に肘をあずけ、ストレートの髪を穏やかに吹く風に任せている。彼女の横顔に村越は魅了された。正面から見たときはそれほど綺麗だと思わなかった顔が、その時はとても美しく感じた。恐らく一目惚れだった。
村越は彼女の視線を辿ったが何を見ているかまでは解らなかった。そこにはただの庭しかなかったのだ。それから、村越はしばしば彼女の横顔を探した。はよくそこの窓から庭を眺めていた。
中学時代の男女というものは、徐々に見えない壁が出来始める時期である。双方とも気兼ねなく異性に話しかけることができる社交的な子どもではなかったので、ほとんど事務的な会話以外交わすことなく中学を卒業した。それぞれ別の高校へと進学したので、それから一度も出会うことはなかった。
突然の再会から約一ヶ月がたった頃、の方からご飯を食べに行かないかという連絡が来た。村越は少々躊躇ったが肯定の返事を返した。二人の間に特別な思い出があるわけでもなかったが、大人になった今だからこそ話せることもある。何よりも、偶然の再会に少しだけ胸を躍らせていたのだ。彼女からの誘いを断ることは気が引けた。
彼女によって連れてこられたのは、普段チームメイトと飲む居酒屋よりは洒落た店だった。内装が少々女性向けで村越はその雰囲気に居心地の悪さを感じていたが、運ばれきた料理は美味しかった。ほどよく酔いが回ったところで、村越はポロリと常常疑問に思っていたことを問うた。彼女がよく廊下側の窓から何かを見下ろしていたのを知っているのだが、一体何を見ていたのか。ずっと気にかかっていたことを、酒の勢いに任せて告げた。
は意表をつかれたような表情をした。宙を見上げ、考える素振りを見せる。しかし、人間の脳は生まれたときから今までの生活全てを記録できるほど、記憶能力に優れたものではない。しばらくして「忘れてしまった」と残念そうに彼女は返した。十数年前の日常のワンシーンを覚えている人間は少ない。当たり前だ。「そうだよな」と彼女の返答を飲み込んだ。若干の寂しさが胸に留まったが、気にしないことにした。
飲み屋をでる間際になって、彼女が「ここは奢る」と言い始めた。村越はたった一度落し物を拾う手助けをしただけで奢られる筋合いはないと割勘を申し出る。しかし、も引かない。両者とも粘りに粘った結果、最後に負けを認めたのは村越の方だった。決め手は彼女の一言だった。
「じゃあ、次は村越くんが奢ってよ。それならいいでしょう?」
それは、次があるということなのだろうか。
村越はその言葉を聞いて何も言えなくなってしまった。は村越が動揺しているのを良いことに、さっさと会計を済ませてしまった。聞き間違えたのかと思った。
「次?」
「うん。村越くんがよければまたこうやって話したい」
直接的に表現された行為に「いや」とは言えない。「そうか」とずれた答えを返した。
「今度はお刺身が美味しい店がいいなあ」
彼女はこのように積極的なことを言う人間だったろうか。記憶に残るは教室でもそれほど目立たないタイプの人間だったような気がする。人とは変わるものだと改めて思う。
駅のホームまで並んで歩く。火照った身体に風の冷たさは心地よかった。彼女は何が楽しいのか、上機嫌で鼻歌まで歌っていた。
そのとき、ほんのりと甘味を帯びた香りが村越の鼻にすっと広がった。秋の訪れを感じる香りだ。
「あ」
彼女は突然足を止めた。「思い出した!」と口にする。村越は訝しげに半歩後ろを振り返った。
「キンモクセイだよ、村越くん」
は小さな公園に植えられたキンモクセイを見上げていた。
「四組と三組の間の廊下の窓からは、裏庭のキンモクセイが見えたの」
街灯に照らされた横顔が笑う。
「私、この匂いがとても好きだった」
村越はぼんやりとキンモクセイを見上げるの横顔を見ていた。変わっていくものの中に一つだけ変わらないものを見つけた。じんわりと胸が満ち足りたような気分にさせられる。
村越が惚れたのは、この横顔だった。
懐かしい感情が胸にこみ上げた。気が付けば彼女の右手を握っていた。はびくりと触れた瞬間に身体を震わせせたが、その次に見せたのは柔らかい笑顔だった。しばらくの間その場に留まり、キンモクセイを見上げた。
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