私はカフェオレを含みながら、講義が始まる前の少しの空いた時間にファイルを整理していた。密集する講義室の中には極端すぎるほど空調が利いていて、照りつける太陽の中登校してきた者にとっては至福の瞬間だろう。生憎、先に講義がはいっていた私にとって少し肌寒いくらいだ。チャイムが鳴り響きながらも、ざわざわと止まない雑音を耳にしながら黙々とプリントを分ける。この講義の教授は平然と遅刻してやってくるのだ。いつものことだからもう慣れてしまった。それでよく給料がもらえるな、と内心思っている生徒は多いだろう。

、そこ、空いてる?」

 その雑音に混ざって一つ、はっきり通る低くも高くもない声が聞こえてきた。この講義にあまり知り合いがいない私は少し驚いて顔をあげた。そこにいたのは切原だった。高校からの同級生で、あまり成績が良くない割にエスカレーター式の大学から外れて地方の大学に進学した変わり者の一人だ。高校の時に幾度か同じクラスになったこともあったよな、と久し振りにする会話に懐かしさを感じながらさっと鞄をよけた。

「あ、うん、空いてる」

 そう言ったあと彼はぱたぱたと垂れる雫を手のひらで拭いながら私の隣に腰を下ろした。周りを見れば、割と疎らに席は空いている。何故彼が態々こちらを選んだのか、少し不思議だった。切原はぺたり、と冷たいテーブルの上に顔を付けて涼しさを体感していた。私は彼の流れる汗を見て、相当外は暑そうだなと顔を歪めた。夏だから仕方ないのだけれども。雑多に積まれたプリントを一枚一枚正していると、ふと横から彼が覗きこんできた。

「そういえばさ、この講義来週レポート提出だっけ」
「そうだよ」
もうやった?」
「ううん、まだ。今こうやって整理して書く準備してるとこ。切原は?」
「やってねぇに決まってんじゃん」

 ダルい、と一言つぶやいて机の上に無造作に並べているプリントをぺらりと捲った。並べられている堅い文字に、目を通しながらどんどん眉間の皺が深くなっていった。確かにこの講義の内容は少し、複雑だったりするのでその気持ちもわからなくはない。私自身、内心溜息をつきながら整理していたのだ。

「……このメモ写していいか」
「いいよ。後で売店で何か奢ってね」
「げ、じゃあいい」
「嘘だって」

 このメモだって講義中しっかり起きていれば取れたはずのメモなのに、また寝ていたんだろうなあと苦笑いする。高校の時も、席が近かったりするとよくノート見せてあげたっけ、と当時のことを思い出した。あまりにも回数が多いものだから、偶に何かを奢ってもらったりもよくしていた。教授がまだ来ないのをいいことに、かりかりとルーズリーフを取り出して写し始めた。

「こうやってとしゃべんのも久し振りだよな」
「そうだよねえ、講義もあんまり被らないから」
「夏休みは実家帰る?」
「集中講義取ったから、後半にね」
「俺も。夏休みなんだから休ませろってのに、これ取っとかないと単位やばいんだよな」

 他人のノートを写し取ることに長けているのか、いつものことなので慣れてしかったのか、腕を動かしたままでも普通に会話ができる彼に少し驚く。自分だったら書きながらしゃべりながら、なんて無理だろうな、と思いながら忙しく動く右手をぼうと眺めた。それから、そろそろ期末が近いからかテストの話に移る。教職課程を別途で取っている彼は、こう見えても案外忙しんだぜ、と苦笑いしていた。数分もすると、ぴたりと手が止まり、ん、とノートを手渡してきた。未だに教授は現れない。

「ってことはさ、さっきの話しに戻るけど」
「うん、何?」
「夏休みの前半はこっちにいるってことだよな」
「そうだけど」
「じゃあ、八月にここでお祭あるの知ってるか」
「あ、あの神社のお祭りでしょ。知ってる知ってる」
「誰かと行く約束してる?」
「……友達と去年は行ったからなんとなく今年もそうしよっかなあとは思ってた」
「取り消しの余地があるなら、俺といかねえ?」

 え、と声が出そうになったのを寸前で堪えた。切原は「どうする?」、と軽く笑みさえ浮かべて誘っているが、私にそんな余裕は欠片もなかった。ただの同級生と、意識してはいない存在だったが共に遊びに行ったことなど一度もない。それに、誘われるような覚えもない。ということはつまり、俺も男子メンバーを揃えるからそっちも女子を揃えて一緒に遊ばないか、ということだろうか。いや、しかし、先ほど取り消しの余地という言葉が入っていたような気もする。ってことは二人で、ということを意味するのだろうか。

「……二人、で?」
「当たり前じゃん。嫌?」
「えーっと、友達にとりあえず聞いてみる」
「そっか。わかった。じゃあ、友達の許可が降りたら連絡して。……アドレス知ってたっけ」
「いや、知らない」
「じゃあ、交換しようぜ」

 はい、と差し出された携帯に反射的に私も同じ動作をした。よくわからないまま赤外線で交換が進み、切原に先導されるように彼のアドレスを手にしていた。少しポカンとしている私を見て、彼は若干苦々しいような照れくさそうなよくわからない微妙な顔をしてとんとんと携帯を人差指で叩きながらつぶやいた。

「俺としては一緒に行きたいから、いい返事待ってる」

 こくこくと首を縦に振ることしかできない私の救い主のようにニ十分遅れで教授が入ってきたが、それから先、講義の内容がほとんど頭に入らなかったのは彼の意味深な発言のせいだと断言できる。





焦がれた夏

100723