あ、と小さな気の抜けた声が口から零れる。対向車線の向こう側、腕を組んで歩く男女の姿が目に入った。恋人同士寄り添うのも珍しくはない通りではあったが、問題が一つ存在する。どう見ても、その男の方に見覚えがあるということだ。ちょん、と尻尾のように男にしては長い髪の毛を結んでいる独特のヘアスタイルに加えて、髪自体もこれまた珍しい銀色に近い色素の薄い色。見間違えてくれ、というほうが難しいだろう。何気なく視線を移した先に偶然見つけてしまったものだからは、慌ててそれから目をそらしてしまった。後から考えればそうする必要性など全くなかったというのに。むしろ相手の顔くらい確かめておけばよかった。

 仁王雅治は高校生の頃からずっと付き合っている恋人である。は当時、テニス界では有名な強豪、立海大付属高校の男子テニス部マネージャーをしていた。過酷な練習スケジュールに伴い一緒に過ごす機会が図らずとも多くなるテニス部員と付き合い始めるというのは分かりやすいほど自然な流れ。の他にも元マネージャーで各部員を恋人に持った女性は数多に存在する。付き合った期間の長短を気にしなければ。そんな中、彼ら二人は割と付き合いが長い方で、今年で三年の月日が流れようとしていた。理不尽な喧嘩も険悪な倦怠期もいろいろ経験したが、浮気現場を現行犯で押さえたのは今回が初めてだった。

 浮気を目撃したからといってがそのまま仁王に攻め寄ったかといえば、それは決してしていない。というよりも物理的にできなかった。なぜなら、その時はマイカーを運転中であり、声を掛けるなど到底不可能な状況下にいたからだ。もちろん、一旦、自宅に帰宅してから電話やメールなどを使って仁王を問いつめるという選択肢もあったが、それもしなかった。その代わり、その足で比較的近所に住んでいる元部長のアパートへと訪れたのだった。

 元部長―幸村精士は、にとって昔から様々な事柄についての相談役だった。付き合いは自体は彼が部長になってからの一年間という短い間だったが、その当時存在した誰よりも信頼できる相手に値していた。だからこそ直接関わり合いがなくなった今でも、たまに連絡を取り合っている。その証拠に、突然、アポイントもなしに訪れたを彼は訝しげに見つめながらも快く中に入れてくれた。アイスコーヒーを入れてくれた彼は、黙っての話に耳を傾けた。先ほど見た光景はにとって衝撃的ではあったのだが、案外口にするとさらりと完結にまとまってしまった。仁王が浮気をしていた、ただそれだけ。の口から告げられたその内容に、幸村は全く動揺しなかった。それどころか慰めるわけでもなく、あくまで現実的な言葉をに投げかけた。

「別れるの?」

 さくっと心臓に短剣を突きさされたような感覚がした。いくらなんでも唐突にその質問はないだろう、と若干呆れこそしたが、そこではた、と自分の気持ちに気がつく。仁王が浮気したことに衝撃を受けてはいたが、だからといってすぐさま別れようという選択肢は浮かんでいなかったのだ。苦いコーヒーを口に含み、とりあえず一人では抱えきれなかった事態を誰かに話してしまったら、自分でも恐ろしいほど落ち着いていた。

「うーん……どうだろう」

 濁したようにそう呟けば、可笑しそうに幸村は苦笑する。怒ってないの、と再びに問いかけた。

「驚きはしたし、悲しみもあったけど、不思議なことに怒りがない」
「前にも浮気されたことあったんだっけ」
「ないと思う、多分。……もしかしたら、浮気してるかもなあ、っていう危機感は前からあったのかもしれない。だから、こんなに冷静なのかな」
「なんだ、残念」

 心底不思議な感情が渦巻いていると告白するに向って、幸村はつまらなそうにそう告げた。人の恋路を面白がっているのはよくわかる。年頃の若者にとって恋における問題や悩みは自分のものより他人のほうがより甘く、より関心をそそられるものだ。それが不幸話で会ったら尚更。素直に自分の気持ちを吐露する幸村に、変わってないなあ、と微笑んだ。

 仁王が今まで他の女の影を匂わせたことは一度もない。少なくとも二人が比較的長い時間を共有していた高校時代においては、むしろ仁王の方が視界に入れたくもないほどに依存していた。ただし、付属大学にエスカレーター式に進級していった仁王と違い、は別の大学に進学している。物理的な距離と時間が邪魔をするようになり、滅多に一緒にいられなくなったのは事実だった。恐らく、その生活が始まってから浮気という言葉がの脳内に浮かびあがり始めたように思う。そう考えると、仕方のないことなのかもしれない、と逆に納得してしまう自分がいることに驚きだ。なんて薄っぺらい感情だ、とも思わなくもないが、実際の人間とはそういうものだ。接する時間が長く、触れ合う回数が多いほど相手のことを好きになる。性格的な好みは少なからず存在するだろうが、遠くにいてなかなか会えない恋人と身近にいて寂しい時に埋め合わせができる浮気相手ではどちらにより感情が傾くだろうか。答えは言わずともわかる。思案を巡らせているに対して、幸村は唐突に話をきりだした。

「俺と浮気しない?」
「はあ?幸村相手じゃ無理だよ」
「つれないなあ。俺、仁王に勝るとも劣らない良い物件だと自負してるけど」
「私が浮気したら話がややこしくなるでしょ。それに、幸村はタイプじゃないもん」
「それ本気で言ってるの?」
「もちろん。もし浮気するとしたら真田がいいー」
「えっそれは趣味悪い。そもそもあの堅物に浮気とかできないと思うよ」
「だからでしょ。雅治に捨てられてもきっとそのあと真田が貰ってくれるから安泰!」

 その堅物には年下の可愛い彼女が既に存在するが、好みのタイプであることは間違いない。彼は拗ねたように―さぞかし自信があったそうだ―を一睨みして、そしてふっと花が咲くように笑った。よかったよ、と彼はに告げた。無神経な会話ながらも、彼はの気持ちを幾分か浮上させてくれていた。軽口を言い合うことで、気分が紛れることは多いにある現象だ。この一見軽薄な態度は彼が時折見せる、優しさのかけらであるということをは十分に理解していた。そして、こういう奴だからこそ、自分は彼の友達として今後も付き合っていけるのだろうなあと再度確信した。

 幸村の家を出て車に乗り込み、もうこのまま実家に戻ろうかとルート確認をしているところでぶぶぶと低い音が響いた。ポケットからバイブの鈍い振動が伝わる。そっと携帯を開けば、仁王からメールが一通届いていた。

「今日はこっちに帰ってきとるんじゃろ。カレーがええ」

 いつも通りのメールに、目を通すまで必要以上に緊張していた自分が酷く滑稽に思えた。仁王はがあの光景を見たということに気が付いていない。ふう、と小さく溜息をついた。の気持ちははっきりしている。別れるつもりはない。ただそれだけだった。傍から見れば、彼の方が彼女に依存していると感じる自分たち二人の関係だったがそれは間違っていた。執着心が強いのはの方だった。浮気、つまりは恋人に対する裏切り行為だとされているその事実を知っても、は彼を手放したくはなかった。むしろ、取り戻してやる、と意気込むほどに。

(怒りみたいな激情はなくても、基本的に負けず嫌いではあるんだよ)

 悔しさ、とでもいうのかゆっくり体を包むようにわきあげてくる感情に、自分もまだ足掻く余地があるのだと考えた。

「とびっきり美味しいカレー作ってあげるから、お腹空かせて待ってなさいよ」

 男の心を掴むにはまず胃袋から。根本的な考えであるが、食の細い仁王がこうしてカレーが食べたいとメールをしてくることすら珍しい。頼られている、ということがに安心を与えた。少なくともその浮気相手の子には頼めないことなのだろうから。ここから、彼女と見えない女性との仁王を掛けた攻防が静かに幕を開けた。



愛しみと憎しみの狭間

100906   ( title by.Canaletto / 愛しみは"かなしみ"と読むそうです。 )