02

 温かい日差しが頬を照らす。
 近頃はうっすらと寒さも和らぎ、春の訪れを感じるようになった。太陽の匂いが辺りを取り巻き、すんすんと鼻を鳴らして息を吸い込むと、肺の中はどことなく甘い香りで満たされる。こうしていると心底、安心する。
ちゃーん」
 遠くから名前を呼ばれた。続けて「おーっす」と間の抜けた声が聞こえる。が振り返ると、カジュアルな服を着た石神がふらふらとした足取りで歩いてくるのが視界に入った。もぐもぐと口が動いている。その姿を見て、無意識のうちに眉をひそめた。
 は、食べながら歩くという行為があまり好きではない。見た目が悪いばかりでなく、食べ物に集中して注意力が散漫してしまうので危ないからだ。大元を辿れば母親の躾が原因で小さい頃からしてはならない行為だと当り前のように思っていた。今でもはそれらを嫌っているし、なるべくなら隣で歩く友人にそのような行為を取って欲しくはない。だが、あまり口うるさく言うとやれ神経質だなんだと煙たがられてしまうので、近頃では心の中で注意するに留めている。
 だが、言葉にはしなくてもやはり態度というものには多少なり影響があるようで、の表情は苦々しいものに変化していた。石神もの様子に違和感を覚えたようだ。この人は今機嫌が悪いのか。それを探るようにじろじろと大きな目でを見下ろした。視線が痛いのでそろそろ沈黙を止めて声を掛けるかと口を開きかけたところで、口元に何かが差し出された。
「食べる?」
 差し出されたのはホカホカと白い湯気を立てるコロッケ。揚げたてなのだろう、先ほどから幾度どもふうふうと息を吹きかけていた。坂を登った小さな店で扱っている、観光客用の雑誌に載るほどには有名なコロッケだ。空腹から不機嫌になっていると結論付けた、その思考回路が手に取るように解り、の怒りがまた一つ大きくなる。自分はそんな小さなことで機嫌を損ねているのではない。なにより、石神が口を付けたあとが真正面に見えるのだ。はぶんぶんと強く首を横に振った。
「ガミさんが口を付けたのなんていらないよ」
「おいおい、失礼な奴だなー」
 彼は気にならないのだろうか。兄弟じゃあるまいし。いや、たとえ兄弟でも食べ物を共有するのは嫌だ。
 ぶつぶつと一人ごちている間にも、サクリと気持ちの良い音が耳に入った。大きな口がそれを頬張る。綺麗なキツネ色のコロッケはみるみるうちに姿を消した。特別お腹も空いているわけではなかったが、人が美味しそうに食べる様子を見ていると途端に欲しくなる。ぐうと胃の中が収縮し、あっという間にコロッケ一個分のスペースが空いてしまった。
 気が付けばじっと石神の食べる様子を眺めている自分が居た。
「何?」
 視線を感じた石神は咀嚼を止めて、そう呟く。
「新しいのなら貰ってあげるよ」
「無理ですう、買えません。財布もってないもん」
「え、じゃあそれは?」
「おばちゃんがくれた」
 ぱくり。最後の一口を食べる。なるほど、とは思う。
 石神という人間は良くも悪くも人に好かれやすい雰囲気を持っている。天然のものなのかそれとも意図的に作り上げているのか、そこまで深くは解らないが彼と一緒に居ると不思議なゆとりを感じることが多い。なによりも、話しかけやすい気安さがある。人と距離を縮めるのがうまい。良い意味でも悪い意味でも、この人ならいいかなと彼の行動を許してしまう。申し分のない見目をしていることもあって、店頭で接客をしているお姉さん、おばちゃん世代には人気があるようだ。
   会って二ヶ月も満たない彼にぎこちなさを感じないのが不思議だった。と石神の波長が合うのか、彼が合わせてくれているのかそれは定かではないが、石神という人間はするりと簡単に人のテリトリーに入ってくる。また、人にはそれぞれこれ以上もう近づかないでという限界の線が存在する。所謂、プレイベートゾーン。彼は、そこのすれすれの距離を見極めて、距離をとるのがうまい。不思議な安定感。人が不快に感じる部分には手を伸ばさない。きっと、それが心地よいのだ。
 は石神のその気楽な部分に甘えてしまっている自覚があった。本当は一つ年齢が上なのだが、いつの間にか敬語を使うのを忘れている。しまいには「ガミさん」とあだ名で呼ぶようにまでなっていた。こちらは本人の希望でもあるのだが、彼氏でもない年上の男性をこのようにフランクに呼んだ事はなかった。
「ガミさん」
 はおもむろに彼の名前を呼んだ。
「うん?」
 石神は素直に返事をする。その頬に狐色の衣がこびりついているのが見えた。無防備に顔を上げた彼を一瞥し、にやりと顔を歪めて、からかうような声を出した。
「頬にコロッケのカスがついてる」
「え、なに、どこ? どこについてる?」
「左端の唇のとこ」
 自分の唇を指して、この辺りだよと示す。
「ここ?」
「違う」
「じゃあ、こっち?」
「もっと下」
 石神の指は少し上をふらふらとさまよう。態とやっているのではないかと思うくらい不器用にずれている。
「もう取れよ。めんどい」
「嫌だ。鏡あるから自分で取りなよ」
 気の置けない異性の友人というのがこれほどまでに居心地が良いものだとは知らなかった。は石神と会うようになって心のどこかにぽっかりと空いた、奏真がいないという現実を忘れるようになっていた。これが良い変化だったのかどうかは結論付け難い。

「夏休みは帰ってくる?」
 久しぶりに打つメール。文末には、キラキラと動く絵文字を付けるような余裕もなく、久し振りに彼氏に送るメールにしては質素な一文になってしまった。職場の昼休みに送ったそれは、夜中の十二時を回っても返信が来なかった。それどころか、次の日、そのまた次の日になってもメールどころか電話の一本もかかってきやしなかった。
 忙しいのかもしれない。月末に急かすようにメールを送った自分もどうかしている。彼のメール不精はよく理解しているつもりだ。一読したのはいいものの、それで満足してしまって勝手に脳内で返信を送った気になっているに違いない。大丈夫。理解している。そう繰り返すことで昂る不安を押し隠した。再度、メールを催促しようかとも思ったが、それだけの労力が今のには存在しなかった。結果、放置してしまっている。
 連絡を取ることが恐ろしくなってしまっているのか。
 の心の中に薄ら寒い何かがせり上がってきた。

 その数日後の夜。が習慣である足湯にて疲れを癒していると、同じく足湯に浸りに来たのであろう石神と出くわした。彼とはいくら近所といえども高確率で会うなあとしみじみ感じながら、いつものように「お疲れ」と挨拶をする。彼は隣を空けるようにちょいちょいと手を動かす。もそれに従って少しだけ左に移動した。ストンと彼が隣に腰を下ろす。ふうと力を抜いたような息が聞こえた。
「ガミさん、この後は暇ですか」
「…………特に予定はないけど」
「明日は?」
「一応仕事」
「土日も仕事なの」
「まあね。なにか用事でもあるの?」
「飲みに行かない?」
 沈黙が辺りを覆う。軽い口ぶりで誘ってみたが、目は真剣そのものだ。厄介な席に付き合わされそうになっていると悟った石神は煩わしそうに眉を顰めた。
「……しょうがねぇなあ」
 折れたのは、石神の方だった。彼は気だるそうに立ち上がり、足についた水滴を拭って、居酒屋が集まる町の南側の方へ歩き始めた。
 石神と二人でお酒を飲むのは初めての体験だ。適当に選んだ店は、全国チェーンの居酒屋。休日前の夜ということもあって、なかなか人は多い。と石神はとりあえずビールを選び、既に晩ご飯を食べているという石神に合わせて軽めのつまみを数品頼んだ。
「ガミさんもさ、転勤族であるようなので意見を聞きたいんだけれども」
「なに」
「もめなかったの」
「うん?」
「恋人」
「残念ながらフリーだったんで、もめてくれる人がいなかったよ」
 この時、は石神の返答を酷く意外に感じた。彼女の一人や二人、否、三人いても彼はおかしくなさそうに見えたからだ。彼の隣は居心地がよい。そのよさに浸りたくて、独り占めをしたくて彼に手を伸ばす女性は決して少なくないだろうに。たまたまぽっかり空白が空いたタイミングに転勤が重なっただけかもしれないけれど。
「もしもいたら、どうしてた?」
「あー、どうだろうなあ。別れてたかもしれないな」
 余りにもきっぱりとした言い方に、は一瞬言葉をなくした。どう相槌を打とうか悩んでいるうちに、「あ、引かれた?」とへらりとした笑みを石神は浮かべた。
「俺は転勤が多い職業なんでね。簡単に着いてきてとも言えないし、待っててなんて無責任なことも言えないよ。甲斐性ないからさ、俺」
「アッサリしすぎ」
「そういうもんでしょ」
 大人になればなるほど、足枷が増える。仕事、家柄、世間体。中学生や高校生の時のようにただ好きという感情だけで付き合っていける訳ではない。それを重荷と捉えるか、柔軟に対処していくべき踏み台と捉えるか。その覚悟を決定づけるものは一体なんだろう。
ちゃんは、着いて行きたかったの?」
「……うん」
 本当は転勤が決まったと言われたときに、そのまま「いい時期だから結婚しようか」と続くのかと淡い期待をしていた。はもう時期二十四になる。付き合って三年目。結婚を視野に入れ始めても可笑しくはない時期だ。は奏真と過ごす日々の中で漠然とこの人となら結婚してもよいかもと考えるようになっていたし、確認はしていなかったが彼もそう考えてくれているのではないかと思っていた。けれど、その言葉が奏真の口から出てくることは無かった。
 は自ら結婚を匂わすようなことをどうしても口にすることはできなかった。理由は二つ。重い女だと思われたくなかったから。「まだ早いよ」と窘められるのが恐ろしかったから。結局、には将来を聞くような勇気がなかったのだ。
はどうしたい?」
 転勤が決まった後の彼の問いは重く心に伸し掛った。
 自分自身、ここでの仕事を辞め、東京に出て再就職することにまるで抵抗が無かったわけではない。身を削ってやっとの思いで就いた就職先だ。出来ることなら一人前に仕事をこなせるようになって、それなりの業績を残したいと考えている。もちろん、修学旅行で一度訪れたきりの大都会にいきなり紛れ込む事に対する不安も存在した。
 口にしたい言葉を飲み込んで、「ここに残るよ」と返した。本心では着いていくことも厭わなかった。けれど、彼の重荷になるのではと考えてしまい、最後まで口にすることは叶わなかった。
 もしも、あの時、彼が「着いてきて欲しい」と言ってくれていたら。
 はそればかりを考える。奏真に全ての責任を押し付けている時点で、卑怯者には違いない。どんな答えが返ってこようとも、きちんと向き合うべきだった。どうしたいかと尋ねられた時にちゃんと意思を伝えなかった自分が悪い。一方的な喪失感がずっと付き纏っている。
「今からでも遅くはないでしょ」
「……そうかなあ」
 は完全に言うタイミングを逃してしまったと思っている。疎遠になりかけている今、「一緒に居たい」というのにどれだけの勇気が必要なのだろう。転勤の事実を聞いたその時よりもより一層怖い。あの時もし自分から「着いていきたい」と言えていれば、現在はもっと違った環境の中にいたのだろうかと幾度後悔したことか、数え切れない。
「躊躇う理由がある?」
「ガミさんはそう言われたら重いって思わない? 私はそう思われるのが一番怖い」
「欲しいと思ったものは、正直に言わないと手に入らないよ」
 石神は根本的な問いには答えず、忠告だけを口にした。恐らく腹の中では「重い」と思っているのではないだろうか。上手く避けようと出した言葉なのかもしれない。ただ彼の言うことは正しくもあるのだ。奏真の言葉を待つばかりであったは、自分のその行動に後悔している。頭では解っているのだが、如何せん、踏み出せずにいる。
「恐れて、ただプロポーズを待っていたいのなら、今の彼氏はキッパリ捨てて年上の、もうすぐさま結婚したそうな男掴まえる方がよっぽどいい」
「誰でもいいから結婚したいわけではないよ」
 ムッとして眉を釣り上げる。石神は「それ見たことか」との皺の寄った眉間を小突いた。
「好きなんだろ、彼氏のこと」
「……好きだよ」
 こてんとテーブルに頭を伏せる。冷たい感触に吐息をこぼす。
 目の前には折りたたまれた携帯電話があった。ぴかぴかと光らないそれは、今日も彼氏からの連絡がないことを無残にも告げていた。何日連絡をとっていないのだろう。最後に電話越しに言葉を交わしたのは何時だ。日付さえ忘れてしまうほど、記憶の彼方にある。が彼氏のことを好きでいても、彼が依然として同じ感情を抱いてくれいているとは限らない。
 彼は自分と結婚する意思がないのかもしれない。
 それに不服を抱いて、愛想を尽かしてしまう自分は、冷たい人間なのだろうか。
「もうやだ。こんなことで悩みたくない」
「やれやれ」
 ビールを飲みながら石神は肩をすくめる。ぐだぐだと愚痴を言い始めたを尻目に、一人退屈そうに酒を飲み続けた。

  
121008