着信履歴の無い携帯電話。
新着メールの問い合わせをするも、「新着メールはありません」の文字が表示される。今日、何度目の確認だろうか。数えるのも億劫だ。は重い溜息を付いてパタンと携帯電話を畳んだ。
付き合って四年目の彼が転勤で東京に渡ることが決まったのは、昨年の今だった。
が住む九州北部から飛行機で一時間と少しかかる日本の首都。簡単にさっと電車に乗って会いに行けるような距離ではない。一年間の遠距離恋愛で実際に彼にあったのは、たったの四回程度だった。彼氏は仕事場の環境や任される業務が変わり、仕事に付いていくのが精一杯のようで、中々地方に置いてきた恋人を構うだけの余裕もなかった。けれど、変わらない環境に身を置いているは違う。彼の居ない空間が忙しさで埋まることもなく、ぽっかりと寂しさだけが残った。ただただ連絡が欲しいと願う。子どもではないので、彼の置かれている現状を理解しており、わがままを口にすることは出来ないけれど、本心は常にそこにある。会いたい、と。
ほうと息を吐く。生温くなったコーヒーを一気に飲み干した。冷えてしまったせいで、美味しさが半減している。マグカップを流し台につけた。誕生日に彼氏である奏真にもらったペアもののマグカップだ。今となっては寂しさを強調するようにぽつんと一つだけの手元にある。色違いのカップは遠い場所に連れて行かれてしまった。
ベランダから見える空は、うっすらと赤く染まっている。そろそろ午後五時を回るころだ。今日は一歩も外に出なかった。なんて不健康な一日だったのだろう。暗くなる前に、気分転換に出かけようか。床に根を生やしていた腰をあげる。
そうだ。しばらく訪れていなかったお気に入りの場所へ行こう。
は取り込んだばかりのタオルを畳み、家の鍵と携帯とタオルだけを手にとって外に出た。乾燥した冷たい空気をすんと鼻を鳴らして吸い込んだ。
の住むアパートから歩いて約三分も経たない場所に、足湯に入ることができる場所がある。観光用の店が立ち並ぶ通りから一本はずれた場所にあるので、観光客向けに作られたものなのだろう。けれど専らよく利用するのは近くに住む住民だった。路地から少しそれた奥まったところにあるため、観光客にとっては見つけにくい穴場スポットなのだ。
はここの足湯に浸かることが大好きだった。
就職を経て、はたった一人でこの町へ越してきた。これまで地元の小さな町を出たことがなかったにとっては何の所縁もない土地である。当然、友人などいない。就職難のこの時期、一人暮らしくらい耐えねばならないと意気込んで外へ出たのだが、思いの外慣れるのに時間が掛かった。ただでさえ新人として覚えることが多いのに、一人暮らし生活に寂しさを覚え、かなり精神的に負担を負っていたのだ。近くに自分の弱い部分を吐き出せる人間もおらず、新しい町になれることもできず、塞ぎ込む日々が続いていた。そんな時、気分転換に町を散歩していた際に、この足湯を見つけたのだ。
暖かいぬくもりに素足を浸す。足先から解れるような気がする。狭い湯の中に足を並べて座っていると、どちらともなく世間話が生まれる。老人や若い学生、小さな子どもに休日を堪能する社会人。近辺に住むいろんな立場の人間が、足を休めるために、もしくは持て余した暇を潰すために、さまざまな理由でやって来る。
ここはにとっては貴重な出会いの場だった。は足湯を通して、知り合いを増やし、第二の故郷としてこの場所を好きになっていった。
「今日は誰もいないのか」
誰かと気晴らしに世間話でも出来たらと思って出かけた足湯だったが、客は一人として存在しなかった。一月も半ばになると外にでる人は少ない。特に午後五時をすぎると晩ご飯を作り始める時間帯なので、余計に人影は疎らなのだろう。は少々残念に思いながらも、足の疲れだけでもよくして帰ろうとブランド名も知らない安物のスニーカーを脱いだ。ジーパンの裾を膝の辺りまで捲り、ゆっくりと足を湯つける。薄いピンクのペディキュアが透明な水の底からチラチラと見えた。
「ふう」
両足を温かい湯に浸したと同時に思わず吐息がこぼれ落ちる。しばらくぼうっとしたところで、手をふくらはぎに添えた。指に力をこめて、丁寧に揉む。平日の疲れがゆっくりと溶けていく、この感覚がこれ以上なく気持ちいい。
そのとき、背後に人の気配を感じた。ふっと後ろを振り返り、そちらを見る。黒髪を短く切り揃えた男性が一人、立っていた。
ぱっと見てと同年か少し年上といったところだろう。アディダスの白いジャージを身に付け、手には色褪せたオレンジ色のタオルを握っていた。寝起きなのだろうか後ろの髪の毛が不自然にちょんと尻尾のように撥ねている。髪の毛くらい整えてくればいいのにと思わずにはいられなかった。
この緩い格好は地元の人間に違いない。しかし、この足湯の常連だと自称するだが、彼のことはまるで記憶になかった。初めてみる顔だ。声を掛けようかどうか悩む。ちらりと盗み見していたら妙に迫力のあるくりっとした大きな目と視線が合った。
「あのー、ここって無料だよね?」
「そうですけど」
「そこの看板に書いてありますよ」と指さす。真新しい看板だが、普通の人の目線よりも若干下に立てかかっているので確かに長身の彼からしたら見つけ難いものかもしれない。彼はが示した方向を向いてその文字を視界にいれた途端、「ああやっぱり、よかった」と心底安心したように呟いた。
「最近ここに引っ越してきたばっかりなんだけど、ぶらぶらしてたらいいとこ見つけちゃって。いつかこようと思ってたんだよ。流石湯の街だなあ」
「無料にしては綺麗だし」と独り言なのか話しかけているのか区別がつかない言葉を呟きながら、いそいそと靴と靴下を脱ぎ始めた。ジャージの裾を捲る。血管が少しだけ浮いた素足が現れる。彼は男の人にしては綺麗な足をしていた。は稀に見る美脚だと羨ましさが先行し、ついじろじろと眺めてしまった。
足先が湯に触れる。ちゃぽん、と水滴が跳ね、振動がの足に伝わった。冷えた肌に温泉の熱さが沁みるのか、くうと堪えるような声が彼の口からこぼれ落ちた。そして次の瞬間、ほわんと顔の筋肉が緩んだ。
この表情をはこの場所でよく見る。どんな人間でも、寒さに凍えた足を暖かい、むしろ熱いくらいの湯に浸せばこのように安心したような柔らかい表情をする。最初感じた不信感はいつの間にか拭われ、いつものように声を掛けたいという気持ちがむくむくと湧いてきた。好奇心に負け、口を開く。
「転勤ですか?」
「……ん? うん、そんな感じ」
彼はの問いにゆるりと首を縦に振った。
「どちらからいらっしゃったんですか」
「京都」
修学旅行で訪れた記憶がある。日本の古の都。真夏から少し外れた九月の暑い日に、散々歴史建造物めぐりをした。一日でお腹いっぱいというほど回った。初めて九州から出た旅行がそれだった。懐かしい思い出がよみがえる。
「遠くからいらっしゃったんですね」
「うん、まあね」
「こちらには慣れました?」
「引っ越して数日しか経ってないから、まだお客さん気分だよ」
ちゃぷん、ちゃぷん。
彼は子どものように足を遊ばせた。平均的な男性に比べると筋肉がカチっとついた足だ。男の足を綺麗だと思ったのは初めてかもしれない。過去に細くて羨ましいと妬んだことはあったけれど、美しいという感想を持つことなど滅多にないだろう。
「ねえ、このあたりに美味しい定食屋さんとかある?」
「ありますよ。とびっきりおいしいところが」
男性だからと料理するしないを決めつけるのはくだらない先入観だと思うが、近場のレストランに比べればより安価な定食屋というものは、やはり気になる存在なのだろうと思う。自身も、手の込んだ手料理を食べたくなった時はたまに利用する。の返答を聞いて、石神の表情が変わる。どこかほっとしたような顔だった。
「お、そうなんだ。よかった。ここから近い?」
「ええ、近いです。ここの道をまっすぐ行って、角を曲がった傍にありますから。『南瓜屋』って店です」
「へえ、便利いいね」
「このあたりは坂が多いので結構大変ですけど、お店は充実してるんですよ」
へへっと胸を張る。暮らす町を一つでも肯定的に捉えられると、自分のことではないのに嬉しくなってしまう。
そこの生姜焼きが美味しくてと話を続けていくと、静かに何かが湯の表面に落ちてきた。音もなく溶ける。二人してその様子を目で追う。
「雪が降ってきたみたいだ」
石神は背を反らせて足湯を覆う屋根から顔を出した。ふわりふわりと白い固まりが空から落ちていた。初雪だ。は夕方見ていたテレビのニュースを思い出す。今夜から明日の朝にかけて九州の北部でも雪が降り、今夜遅くにはうっすらと雪が積もる可能性があります。落ち着いた天気予報士の声に、明日の朝は早めに出て公共機関を利用して通勤しなくてはならないとぼんやり考えていたのでよく頭の中に残っている。
「今晩は、今年一番の寒さになるみたいです」
「ええ、そうなの? 嫌だなあ」
彼は両手をぐっと握り締め、ジャージのポケットの奥までそれを押し込んだ。不満そうに口を尖らせる。
「九州って雪降らないのかと思ってた」
「この辺は滅多に積もりませんし、気温がマイナスになることは少ないですが、雪は降りますよ」
九州と聞くと南の方でしょうと漠然と答える人間がいるが、そこからイコール暖かいという思考に至るのはかなり安易な考えだと思う。九州だって、雪は降る。内陸に行けば、雪山だってちゃんと存在する。九州北部になると、恐らく太平洋側にある都市よりも寒い。九州南部の暖かいイメージをそのまま植え付けるのは、勘弁して欲しい。残念がる彼には悪いけれど、寒さが苦手ならばもっと南へ行くべきだと思う。
本格的に日も落ちてきたのでそろそろ帰ろうかと足を上げた。持参したタオルで丁寧に水気を拭き取って、踝ソックスを履く。指先はぽかぽかと暖かい。凝り固まった疲れと寂しさが解れた気がする。こんな気持ちにしてくれる足湯には救われている。
さて、なんと告げて別れようかと考えながら彼の方へ向き直した。だが、が口を開く前に彼が言葉を紡ぐ。
「ああそうだ、名前教えてよ」
ご近所さんでしょ。
名前を口にすることに、一瞬だけ躊躇った。この人とは長い付き合いになりそうだなと直感的に思ったからだ。関わり合いになりたいような、なりたくないような、微妙な心境がその時の自分にはあった。
じっと真正面から見つめられる。彼の目には嫌な魔力がある。吸い込まれそうな圧力。
はその不思議な圧力に屈した。
「です」
「石神達雄です。どうぞよろしく」
ゴツゴツした男らしい手が差し出される。はそれをぎゅっと握った。石神の手は子どものように暖かかった。
これが、と石神の初対面だった。