![]() ![]() 目の前を歩く跡部くんの後姿を見るのは何回目だろうか。ここ数日で一気に増えた。何千キロも離れていたその距離が今は段々と縮まってでも見えない心の距離は確実に広がっているように感じる。はっはっ、と荒げる息を吐き出す彼の愛犬、ガブリエルはそんな私の思考も気にしないまま走ったり歩いたり、ペースを乱しながら散歩コースを導いている。賢いのは確かで私が追い付けなくなるとぴたり、と足を止めるし些細な気遣いができるのはやはり彼に似ているからか。ぐいぐいと強く引っ張る紐を握りしめながらふと考えた。あと、2日。約束のタイムリミットはあと2日までに迫っている。私がどういう気持ちでいるのかはっきりとあの日以来彼には伝えてはいない。けれど、どんなに日にちを伸ばされようとも私の答えは初めから決まっていたはずだ。ノー、だと。5月と言えど朝は割合寒々とした気温まで下がっている。囁くようになびく風がより視界をクリアにし、ふぁさりと彼の髪の毛を揺らした。 (私はどうするべきなのだろう。) 嘘だと疑ったのも事実、疑っていたいのも事実、けれどその半面、今まで接してきた跡部が嘘ではないと信じたいのも事実だった。半信半疑で始まったこの微妙な関係も、ここまでくると信じたいという気持ちが強くて。けれど、信じたところで私の答えは変わるのだろうか。彼を好きか嫌いか。どちらかといえば、好きなタイプではある。というよりも彼のことを好きか嫌いかどちらかを選択しろと言われて嫌いと答える女子の方が少ないに決まっている。なんといってもその外見も中身も女心をくすぐるものを寄せ集めたような人であるから。けれど、恋愛感情を持って接することができるかというのはまた別な話でもあり、それと同時にそこまで想像する自分がありえないと心の奥が強く否定していた。私が想像してもいい場面ではない。こうやって今、隣に並んでいることでさえたぐいまれなる罪悪感が押し寄せているのだ。そんなことをひたすら考えていたせいか、ガブリエルの一瞬のダッシュに力が追い付かず、ぱっと紐から手が離れてしまった。 「ガブリエル!」 名前を呼べばすぐに戻ってくる。やっぱり賢い子である。そのまま犬持ち前の脚力で遠くまでいかれてしまっては大惨事だ。なんたってこの子は私のペットではない。抵抗を感じず自由なまま走りだそうとした彼はぴくん、と耳を動かしてこちらを振り返りたたた、と戻ってきた。いらぬ緊張がまた増えた。跡部くんは懐疑そうにこちらを振り返った後、愛犬の名前を小さく呼ぶと今度は彼が手綱を握った。 「疲れたのか?」 「あ、いや、…ちょっとぼーっとしてて。ごめん。」 「別に。今日は学校もないし特に急ぐわけでもない。休むか?」 「そうしてくれると、ありがたいかも。」 どちらにしても彼と彼の愛犬の運動量はかなり半端なかった。と、感じるのは私が普段から運動不足であるというのが一番の原因であるのだが。数回ではあるが散歩と共にさせてくれたといってもまだまだ始めたばかり。体はついていくどころか日に日に疲労を足に感じている。情けないことこの上ない、まだ17歳なのに。ふうと、近くにあった小さな公園のベンチに腰を下ろした。2人で座っている分、距離が先ほどよりも近い。別の意味で動悸が激しくなりそうだった。 「さっき何考えてたんだ?」 え、と言葉が濁る。彼は人の気持ちを察するのが得意そうだ。私の1つ1つの行動が彼の脳内でつながってより冷静に分析されていそうで恐ろしい。特に何も、と口にするとふうんとした曖昧な返答が返ってきた。薄々わかっている気がするのは私の気のせいなのだろうか。くるくると退屈したようにベンチの辺りを回り始めたガブリエルにそっと手を添えて撫でる。沈黙が先ほどから痛い。特にどちらもおしゃべりというわけではないし、独特の緊張感がこの間には流れていることは承知している。けれど、期日が迫ってきた今日その圧力は多大なるプレッシャーであってたとえ悟られることとなろうとも何か話題を見つけなければと躍起になる私の気持ちを分かってくれる方は少なからずいるのではなかろうか。 「あと、2日だね。」 言わんとすることがすぐに察せたのだろう、ぴくりと彼の眉が動く。そして何がおもしろいのかくすりと口を緩めた。まるでそのことを考えていたのか、と言わんばかりに。 「もう疑ってはいないだろうな。」 「それは、……まだよくわからないけど、真剣に考えているとは思うから怒らないでね。」 「この期に及んでまだ嘘だとかくだらないこと考えてんのかよ。」 「だって、跡部くんだし。ほんと有り得ないから。」 繰り返してきた有り得ない、という言葉にもう聞きあきたと彼は溜息を零した。どうしたら信じてくれるのか、と真顔で問われるけれどそれは恐らく無理だと思う。じりじりしていて本当は今にでも答えを聞きたいのだろうか、それともノーと言われるのが彼のプライド的に許せないのか、よくわからないけれど確実にきちんと期日まで待とうとしているところはすごく誠実だとは思う。あれから何も酷いことを強要したこともなければ、あくまで私が近づこうとしたときだけ答えてくれた。そういうところは近づいてみて初めて分かったイメージ上では見えてこなかった一面である。呆れたように脱力した彼に、ごめん、と呟けばじゃあ、とすぐさま切り返してきた。まるで狙っていたかのようだ。 「明日、どっか行こう。先週はお前断っただろ。」 「拒否権発動してもいい?」 「却下。」 いいだろうこれくらい、ずっと信じてもらえない俺の身にもなれよ、と零した彼が切なそうに見えたので知らぬ間に私はこくりと首を縦に振っていた。どこがいいのか、と聞かれて遊園地、と答えそうになったのをあわてて遮る。跡部くんに似合わない。だとすれば、跡部くんと私が一緒にあるいても平気そうなところ。少し暗がりのある、映画館、とか水族館とかだろうか。映画は私もとても好きだが見た感じ彼と映画の趣味が合いそうにない。とくればここは水族館だ。いろいろ脳内でシュミレートした結果出てきた答えに、跡部くんはくすりと笑った。なんでも百面相をしていて見ていておもしろかった、だそうだ。変な顔は元々なのでいまさら言わないでほしい。 ![]() 約束を取り付けるだけに一苦労とは跡部にとっても初の体験だった。今までは誘われることの方が多く、珍しくこちらから誘ったとしても断れることなんて本当にまれであり、ほとんどは代替の日を取りつけられることが多い。なのに目の前の彼女ときたらメールで誘っても断るは変に忙しいと言い訳をするは、挙句の果てにはシカトに入る完全拒否状態だった。今回も残された日も少ないのでどうにかして一緒にいるときを増やそうと思って臨んだのは事実であり、どちらにしても言いだそうと思っていた。散歩の間、ずっとぼーっとしていた彼女に少しでも返事のこと、恐らくは彼女ならどうやって断るかなんて考えているかもしれないなんて弱気なことを想像しながら甘い期待をかけていると予想外に意識していてくれたらしい。遠まわしに問いかければ彼女の方からぽろりとあと2日なんだ、という現実を突き付けられた。今だ信じ切れていないという言葉には落胆というよりも諦めに入っていたのでそれほどショックを受けなかったのだがそれをこじつけに思いがけずスムーズに約束を取り付けることができたのは不幸中の幸いといったところか。うんうん頭を悩ませて水族館、と言い切った彼女は以前よりも表情が格段に増えて嬉しかった。 「跡部くんは、私と付き合いたいんだよね。」 ポツリ、と今更なことを口にする。好きだ、と告げたことがあまりにも少ないからか尚のこと確かめるように彼女はそう口にした。今日は特に冷え冷えとしてる早朝で、少し頬が赤く染まっているのは寒さからきたものだと思いたい。そうだ、と口にしたら途端に黙る彼女。なんだこいつは、と思いながらも段々顔が赤くなっていることに気づく。 「なんだよ。」 「……いや、なんでもない。」 「なんでもなくないだろ。顔すげえ赤い。」 「……変なこと聞いても?」 「はっきり言えよ。」 丸っこい頬を両手で押さえて視線を下に下げたまま、どうしよう、と零す。照れることなのだろうか。きっと好意をここまで真正面から受けたことないはずの彼女である。好き、と言ってほしいとか。それでもっと自分のことを意識してくれるのならばいくらでも言ってやろうと思っていた矢先にぽつりと小さな声で彼女は恥ずかしそうにつぶやいた。 「私とキスとかそれ以上のことしたい、とか本気で思えるの?」 ぽかんとするのはこちらの方だ。その言葉の裏に隠されているのは挑発か、と疑いそうになってしまった時に見えたのは彼女がそういうタイプではないと判断することのできる己の思想である。すっと彼女へ向って伸びていた右手をつかんだ。らしかぬ問いかけの裏には過去の棘ともいえる辛さが伺える。だからあえて普段通りのなんのけない様子で答える。 「付き合うとなると普通そうなることは予測されてるもんじゃねえのか。」 「こんな私でも?」 「してほしいのか?」 「…そういうわけじゃなくて。跡部くんのことを信じられない理由は私がこんなだからだし。もっと私が跡部くんに釣り合うような人だったらこんな風に思わなくて、もっとすんなり受け止められていたと思う。私は跡部くんに好かれるようなできた人間じゃないし、普通は生理的に無理なんじゃないのか、と思っただけ。」 「前にも言ったが俺は外見も内面も含めた上でお前を好きだと思っている。その思考は捻くれ過ぎだ。確かに太っているけどかわいくないわけじゃない。それに、例えばそうだな、することを拒否しなければ今ここで抱きしめてキスしたいという欲求くらいはあるぜ。俺も一人の健全な男だからな。」 そのような言い方をされてはまるで跡部と彼女の間をふさいでいるのは外見だけのようで、気持ち的には彼女の気持ちは跡部に傾いているととらえられてもおかしくはない。気を良くしたようにすっと笑った跡部に、聞くんじゃなかったと呟いた彼女の言葉は完全に無へと返される。顔は真っ赤、いつかトマトのようだと比喩したことがあったが今回はそれすら思い浮かばないほど。口の上では信じられないと何度も跡部を確かめるような言い方をしてきた彼女だが、この言葉によってそれでも報われていないわけではないのだ、と実感することができた。嫌ならばそんな生々しい思考にまで至るわけがない。それは心のどこかに迷いがある証拠。どのような結果が待ち受けるのか、しかしながらもし意に反した言葉が返ってきたとしても跡部の頭の中にはそれで諦めるというような思考はいっさい存在しなかった。 *091025 性的欲求を抱けるか否か、という問いに答えさせたかっただけ。 |