逃げ惑う気持ち  



 彼、向日岳人は人生にして初めて自分のくじ運を呪った。今までは割と当たりのよい方だったはずなのに、いかんせん、今日ほどその当たり障りのないいたって普通の運気を発揮してほしかった。どうして悲しいかな、跡部の片思い相手であるの隣の席、しかも反対側は壁側というポジションに陥ってしまったのだろうか。事情を知っている向日としてはやるせない気持ちでいっぱいだった。とりあえず、と思い視線を隣に移した。左隣がいないため必然的に視線は右隣に向かう。

「よろしくな。」
「あ……うん、よろしく。」

 ちろりと恐る恐る振り向けば、屋上でのとげとげとした雰囲気は一切持たない、むしろ逆に不安がっているようなおとなしそうな印象を彼女に持った。思えば、意識し始めたのは本当にあの一件を目撃してからであってそれ以前に彼女をきちんと見たことなんて一度もなかったのではないか、と思う。いたって違う雰囲気に首を傾げたが、かちんこちんに固まって微動だにすらできないような様子を見ていて、はたと気がついたことがある。

(よく見りゃ周りが雰囲気の違うやつらばっかじゃん……。)

 男、女、どれも交互にバランスよく散りばめられているが、彼女とよく話をしているような女は右端の隅っこで固まっている。彼女一人だけあのグループ内で運悪くこちらへと流れてきたのであろう。同じクラス内であるがどこかアウェイ感が否めないようだ。こりゃ気にしない方がいいんだろうなあ、と思いながらもどうも隣に視線がいってしまう向日であった。







 あの一件から数日後、私のクラスは席替えを行った。1学期が始まってもう大分たつし、そろそろ前の席も飽きられていたのだろう半数の生徒は乗り気だった。新しい席でリフレッシュした気持ちで挑んでいけるかと思いきや、思いがけずポツンと友達から離れた席を引いてしまい早速後悔である。しかしながらあの跡部くんと席が近くならなかっただけましかもしれない。―メアドを交換してから、なぜか1日1通ずつ跡部くんからメールがくるようになった。返事はしない。バカバカしいから。それに返す言葉もないくらいとても短い。それでも、毎日送ってくるのだから若干引き気味である。隣が彼と同じテニス部の向日くんになったときはちょっとひやっとしたけれど、跡部くんじゃなかっただけマシだ。それにしても仲の良い子たちの中で一人だけこんな親しくない人達に囲まれた席に座るってすごく災難なのではないだろうか、と溜息をこぼした。

「なあ、教科書見せてくれねーか?」
 
 その日の3限目、国語の時間。私は国語は割合好きだったのでさらさらと丁寧にノートを取っていた。そんな合間に隣から視線を感じてふとそちらを見ると、机をくっつけながら近寄ってくる隣の男の子――向日くん、だ。返事をする前にくっつけられてしまったけれど、前にも後ろにも斜めにも彼の知り合いというか仲の良い子がいるのにどうして私なんだろう、と疑問を隠せずにいた。それが思い切り不審な顔として出ていたであろう、向日くんは「マジでごめん!」と言いながらカリカリと写し始めた。そしてああなるほど、と納得する。教科書に練習問題があったのだ。そしてこの順番からして向日くんは次に必ず当たる。ついでに答えまで見ようとしているのだろう。

「別にいいけど、合ってるかわかんないよ。」
「書ければそれでいいから。ありがとな!」
「…うん。」

 慣れない人に話しかけられたことに驚いて段々と顔が赤くなってしまう。自分で自覚している以上に対人関係に対する免疫というのがついていないのかもしれない。

(コンプレックスの塊か…。)

 もし自分がもっと綺麗だったら。もっとかわいかったら。もっと人並みにクラスに溶け込むことができていたなら、私は跡部くんの告白をこんなに辛く感じずにオッケーしていたのだろうか。日々募っていくなんとも言えない気持ちが私の中でぐるぐる渦巻いていた。かわいくなりたい、と願い続けている気持ちはずっと幼いころからあったはずなのに実行できない、否、続かないのは自分自身の外見ではなく中身の問題なのだ。情けないよなあ、本当に。はあ、と溜息をこぼしていると当てられて答えを書きに前へ出ていた向日が戻ってきた。きちんと赤丸で囲まれたそれにほっとしながらもじわりじわりと席を離す。いつまでもくっついてられるか。

「助かったぜ、ありがとなー!」
「…うん。」

 それでも、お礼を言われるのはどこか嬉しかったりする。彼の方を直視できなかったけれど、心の中は少しぽわんとやわらいだ。そもそも、どうして跡部くんは私なんかにあんなことを言ったのだろう。間違っても跡部くんが私のことを好きになるはずがないというのに、罰ゲームじゃないんなら、…どうして?







 次の日の朝、向日は朝練を終えカフェオレを咥えながらクラスへと入った。今日は総会があるため、いつもより朝練を終える時間帯が早い。ぱしゃ、とドアを開けば人数はまだまばらだったが、隣の席にはすでに人が座っていた。2日経ったが、跡部にもにも目立った変化は見られない。教室では目を合わすことも全くないし、跡部の部活での様子もいたって普段通り。やはり、自分の見た光景は幻だったのではないか、と疑ってしまうほどだ。カタン、と椅子を引きずる音を鳴らして席に座りこめばぴくり、との肩が震えた。顔を伏せて音楽でも聞いていたようで、数センチ机から顔を離して周りをきょろきょろしたあとばたんとまた倒れこむように伏せた。その様子がなんだか滑稽で思わず自分から近い方の耳のイヤホンを取ってみた。

「ちょ、いきなりなに?」

 がばっと驚いたように今度はまっすぐになるまで顔をあげた彼女。自分だって突然そんなことされたらびっくりするだろう。しかし、聞こえてきた音があまりにも意外だったので逆に自分から問いかけた。

「おま、このアルバム先週でたばっかのじゃね?」
「あー、ああ、そうだよ。もしかしてファン?」
「俺、すっげえ好きなんだってこのバンド!」

 最近はまっているバンドの曲が流れてきたときは耳を疑った。しかもメジャーなバンドではなく、割とマイナーで知ってる人が少ないものだからテンションが上がってしまう。それをどう彼女がとらえたのかわからないけど、ふ、と口だけで笑った。そしておもむろにカバンから何かを取りだす。それは今耳元で流れている音楽の音源だった。キラキラと目を輝かせてみれば貸してあげようか、と神のような一言を彼女は零した。

「マジで?!いいのか?」
「うん、もういろいろi-podには落としたから平気。」

 サンキュー!、といそいそとそれをカバンに収めた。そういえば、昨日といい彼女には礼を言ってばかりだ。あの教科書の問題は応用だったのでそれなりに難しかったというのに完ぺきで助かったし、このCDだってあまりにマイナーなのでレンタルもできず諦めかけていたというのに、1週間もたたないうちに借りることができた。何より、彼女がこのバンドを知っていたことが意外だ。雰囲気的になんというか、クラシックみたいなのしか聞かないイメージがある。素直にそういって疑問をぶつければ、あは、と彼女は噴き出した。

「クラシックもたまには聞くけど、結構なんでも聞くよ。J-POPとか洋楽も聴くし、気が向いたらパンクとかも。」
「まじで!え、じゃーさ、これとか知ってる?」
「あ、それ好き。特に3曲目とか好きだなー。」
「…なんか趣味合うかもしんね。まじ意外なんだけど。」
「あはは、そうなの?私も意外。そんなこと言われたの初めてだから。」

 ふっくらとした頬が笑っているため普段よりいっそう丸くなっている。けれど、いつもの暗い顔より断然明るくてそっちの方がいいな、と素直に思った。あは、とこぼれる笑みに本質はそんなに暗くないんじゃないのだろうか、とか、話すことが苦手そうだったけれど、話が合うと自分からどんどんしゃべることができるやつなんだなあ、と思った。なにより、笑った顔が普段より数倍かわいかったことに自分でも驚いた。





*090930   跡部が出てこない現実。