不二が朝練を終えて教室に入ると、そこは既に多くの生徒で賑わっていた。テニス部の朝練は割とギリギリまで続けられるので、当り前に目にする光景である。優等生である観月がマネージャー兼選手として練習の指揮をとっているため、遅刻することはもちろんない。不二は固まって会話をしている数組のグループを掻きわけて自分の席へと腰を下ろした。火照った身体はまだ熱が引いておらず、額には汗が残っている。今の不二にとって人が多いこの空間は少々暑苦しい。ぱたぱたと下敷きを出してあおいでいると、先月隣の席になったばかりの女の子が声を掛けてきた。という、少々変わっている性格の持ち主だ。 「不二くんおはよー」 語尾がやや伸びているのはもはや彼女独特の口調とでも言うべきであろうか。朝から何がそんなに嬉しいのかにこにことした締まりのない笑顔を顔に張り付けていた。女子からは愛想がないが故に敬遠されることが多い不二だが、彼女は臆することも無く彼に話しかけてきていた。初対面の時からそうだ。当初は珍しい奴もいるものだと思う程度で、特に好意も嫌悪も抱いていなかったのだが彼女を知れば知るほど不二の中で彼女に対する感情が明確になっていった。 「はよ」 唇が動くか動かないかもはっきりとしないくらいのぼそりとした呟きをきちんと聞きとったのか、うんと彼女は一つ頷いて見せた。この態度で解るだろうが、不二はこの隣の席の女子のことが得意ではなかった。むしろ苦手な部類だったのである。彼女は、境界線というものを持たないのか周りを気にせず自分の空間をつくってしまう様な人間だった。空気を読まない、否、空気を読もうともしない。だからこそ、不機嫌そうに見えてしまう不二にも初対面から笑顔で話しかけることができたのである。 今日のは普段と様子が違った。悪意味での様子の違いだ。気味悪さが群を抜いて出ているのである。ふんふんと教室内であるにも関わらず歌を口ずさみながらiPhoneを弄っている姿は怪しいと形容する以外の言葉が見つからない。いつもはもう少し抑えているはずなのに今日はどうしたのだろうか。やや引きながらも不二はのその行動をじっと観察していた。不意に顔をあげた彼女と目が合う。やばいと思ってすぐさま逸らしたがどうやらに見咎められていたようで「どうしたー?」と明るい声で声を掛けられた。「絡んでくるな」とその時心の中で不二は叫んだ。 「いや、別に」 「うん?……あ、今日の数学の宿題やってないとか?ごめんけど私の答案写しても当たった時になんの力にもならないよ」 「違えよ。ちゃんとやってきてる。やってないにしても、そんなことに頼むわけがない」 「怒らないでよー。じゃあ、何?どうしたの?」 宿題もやってこないような人間だと見なされた不二は必死で彼女の言葉を否定した。だが、それによって余計に彼女の関心を煽ってしまったことにあとから気が付いた。無視してしまえばいいものの、根が善人な不二はぐぐいと問いかけるように顔を近づけたに押されて理由を答えてしまった。 「朝から気持ち悪いくらい機嫌がいいから、どうしたのかと」 その瞬間、薄いピンク色のリップが塗られた唇が緩い弧を描いた。 「聞いてくれるの!」 「えっ」 嫌な予感がすると直感的に不二は感じたが回避する方法を知らなかった。きらりとの表情が輝く。どうやら先ほど不二が口にした言葉は今もっとも触れてはいけない事柄だったらしい。近くで「あーあ」と呟く声がする。の友人のクラスメイト達だった。先に被害に遭ったのであろうか、視線をちらりとそちらに寄せれば「御愁傷様」とでも言いたげな悲しげな表情でこちらを見つめる女子二人と目が合った。止めてくれと表情で訴えたが大して親しくも無い不二に対してそのような行為を行う理由はないと考えたのか虚しくもふいと視線をそらされた。そんな不二の内心を悟ろうともせず、はぐっと拳を握りしめて熱弁をふるい始めた。 「あのねあのね、ずっと前から大ファンの鈴木って俳優がいるんだけど……あ、不二くん知ってる?あの月九のドラマの高校生役で出てた人。ええ、知らないの?ああうんまあ脇役だから仕方ないといえば仕方ないんだけどちゃんと毎回レギュラー出演だったんだよ。ってそれはおいといて、その人がね、今度、舞台の主役に抜擢されたの!主役だよ主役!すごくない?!」 一方的にしゃべりかける彼女の剣幕といえば、本当に恐ろしかった。不二は詰め寄ってくる彼女の興奮からできるだけ逃れようと身体を精一杯後ろに反らして、暴走に耐えた。口の端が引き攣っていたり目が笑っていないことには気が付かないのだろうか。ぺらぺらぺらぺらとよく回る口は止まることを知らなかった。「あー」「うん」「そう」「よかったな」という不二の精一杯の優しさである相槌を聞いていないのではないかという程の勢いであった。終いにはその舞台のHPをiPhoneでわざわざ検索して不二に見せつけてきた。どうやったら止まるんだろうと思いながらも彼女に促されて画面を覗きこんだ。 「ね、ね!かっこいいでしょ。本当にかっこいい。マジでかっこいい。大好きすぎる」 本当とマジは同義語である。二度も繰り返す必要はない。不二は画面上で微笑む鈴木の姿を一瞥しながら心の中で零した。 が一人の芸能人に夢中であることを、不二は知っていた。休み時間にその俳優が出ている雑誌を広げて感嘆の息を吐いている姿をよく見かけていたし、机の上におかれている下敷きが彼のものだったからである。随分と熱をあげているということはそれで解った。ドラマをそれほど見ず芸能人などに疎い不二でさえも、が独り言のようにその俳優の良さを呟いているので名前と顔を覚えてしまった。正直、不二には鈴木はその辺に転がっていそうな在り来たりな人物にしか見えなかった。年齢は自分よりも三つ上のようやく成人した年頃で、この年齢で月九ドラマの脇役に抜擢されたのだから俳優としては見込みがあるのかもしれない。ただ演技そのものを見たことが無い不二にとっては判断基準が少なく、どうしてがそこまで彼にのめり込んでいるのか常に疑問だった。 はその俳優の良さや今度の舞台の魅力について語りつくしたのか満足そうにしている。その呑気な表情を見て―後から思えば間がさしたとしか言いようがないが―不二が抱いていた複雑な感情の一部がぽろりと口から漏れてしまった。彼女の関心が不二から薄れ、その鈴木とかいう芸能人の写真に集中していたからかもしれない。ずっと隣席で彼の良さについて聞きたくも無いのに聞かされていた不二の本音が小さな音となって吐き出された。 「ってこんなキザっぽい奴がタイプなんだ」 ぴくりと彼女の耳が面白い位に反応した。 「キザ……かなあ。どっちかっていうとクールじゃない?」 「そうか?なんか軽そう。俺はそいつそんなに好きじゃない」 「不二くんか好きになったらある意味性別上問題でもあると思うけど……うーん、鈴木くんの良さを理解してもらえないとは、悲しいなあ」 彼女の表情が聊か曇った。それまでの活気にあふれた態度がみるみる内に消沈していく。内心の怒りが募っていた不二は吐き出してしまったある種の嫌味に今更はたと気が付いた。それでも、無理やり聞きたくもない話を聞かされてる自分のことをもっと察して欲しいとも思っていたので、素っ気ないフォローしかできなかった。自分の一言でそれほど落ち込まなくとも良いだろうに、とも考えていた。 「自分が理解してればそれでいいんじゃねえの。俺にまで求めなくても」 「そういうわけじゃないんですよ。色々複雑なんですよ、乙女心というものは」 はへらっとした曖昧な笑顔を浮かべた。それが悲しそうにも見えたので、「なんでそんな表情するんだよ」と言いたかったのだがタイミングよく担任が教室に入りHRが始まってしまった。とたんに室内のざわめきは収まり、教師の声だけが響く空間となる。彼女も曖昧な視線を投げかけ、前を向いてしまった。言い掛けた言葉を呑み込んでしまった不二は、気持ち悪さに顔を顰めた。 彼女の一喜一憂をよく観察しているというのは不二自身、自覚している。変わっているから気になるのだというだけの問題ではない様に思った。自分の言葉で落ち込んでしまった彼女に対して妙に苛々するのだ。馬鹿馬鹿しいと溜息を一つついた。早く席替えをしてが視界に入らないくらい離れてしまいたい。そうしたら日々の複雑な感情とも別れることができる。しゅんとしてしまったをちらりと横目で盗み見て、また大きく息をついた。 110411 ※某鈴木氏がモデルではありません。 |