※ 現パロ


 高校三年生の夏は、暑くて、長くて、果てのないものだった。毎日が単調な繰り返しであるのに、じわじわとした焦りが私たち受験生を精神的に追いたてていた。そんな不安要素がいっぱいつまった休みの期間を乗り越えられたのは、彼が居たからだ。中在家なんて堅苦しい名前をしているその人は、期間限定の古典の先生だった。

 受験生にとって夏休みというのは名目だけで、朝から夕方まで補習を取ることを強要されるただの勉強強化月間だった。その中でも国語は基本の三教科で必須の科目。比較的に文系の分野が得意である私だったが、どうも古文という難解に入り組んだ文章は苦手で、現代の私たちが生きていく上で昔の言葉なんか理解しても意味がない、といった捻くれた考えを常日頃口にしていた。それでも、古文を捨てることは危険である。苦手を克服するためにも古文の補習には必ず顔を出すように心がけていた。―というのはほんの建前で、本音を言ってしまえば、古典の授業を引き換えに中在家先生を見に来ている様なものだった。つまり、私は、彼のことを好いていたのだ。

「いぶせしとは、不審だ、気がかりだという意味になる。つまりここは……」

 カツカツと堅いチョークを黒板にぶつける音が静かな教室内に響く。センター試験の問題は全てマーク式だ。記入式よりも点数を取りやすい。しかし、その分、国語や英語の読書量は半端がない。その分自然と短い文章の古典や漢文は回答時間の割り当てが短くなる。長々と続く小説、現代文分野とは異なり、短い文章内での読解を試されるからである。どれだけ的確に取り上げられた部分の文を読み取れるかで正解率は上がるのだ。彼の解説を一言も漏らさない様に耳に入れながら、ポイント、とされる部分をメモした。中在家先生の字は角張っていて、教科書に載っている文字のようにとても丁寧で読みやすい。偶に国語教師だというのに―というのは偏見かもしれないけれど―読みにくい略字をつらつらと書きならべる年配の先生もいる。みみず文字に慣れていない私たち生徒にとって、中在家先生のはっきりとした字はとても有難かった。ただでさえ、時間を押しむこの時期だ。字が読めません、と手をあげて補習の妨害をしようものならあらゆるところから非難の視線を向けられることとなろう。

「今日出てきた新出単語は、明日小テストをする」

 チャイムの鳴り終わりと同時にぽそっと呟かれた言葉に少しだけ眉をひそめるものの、ページ数をちゃちゃっとノートの端にメモして立ちあがった。休憩時間はごくわずかだ。彼が教室を出て行く前に、他の生徒に掴める前に、今日こそは話しかけたい。卒業するまでに、少しでも私のことを記憶に残しておいてほしいという気持ちは止められなかった。

「中在家先生、あの」
「……何だ」
「えっと、その」

 運よく他に質問に来た生徒はおらず、廊下にでてすぐそばで彼を振り向かせることができた。しかし、声をかけることに集中していたせいか、事前に用意していた質問事項がすっぽり頭から抜け落ちてしまい上手く言葉が出てこなかった。意味をなさない言葉をごにょごにょと呟いて気まずい間を持たせていたら、彼は小さく息を吐いた。呆れられてしまっただろうか。顔をあげると、普段から表情を崩さないそのままの彼が数歩足を進めて私の目の前に立っていた。

「質問なら、後で受ける」
「あ、はい」
「国語準備室に大抵いるから」

 ぽん、と大きな手が私の頭を撫でた。邪念が含まれていることに果たして先生はきがついているのだろうか、目尻をそっと緩めた彼の表情が私の視界に入る。きゅ、と心臓を鷲掴みされたように苦しくなった。彼はそのまま分厚い問題集を脇に抱えるようにして、階段を下りていった。ぼうっと後姿を見送っていれば、場面を切り替えるように高い鐘の音が辺りに響いた。

「どうした、体調でも悪いのか」
「……なんでもないです」

 入れ違いにやってきた英語科の立花先生が顔を赤くして廊下に突っ立っている私を見咎めて、怪訝そうにぽつりと零した。次の教科は英語だ。彼が担当するということは、今日は恐らく長文読解なのだろう。立花先生は厳しくも適切で分かりやすい教え方をすると生徒からも評判だ。チャイム鳴ってるぞ、と急かしたてるように呟いた彼の後を慌てて私は追った。



 私が普段古典を教わってもいない中在家先生のことを意識し始めたのは、進路相談のときである。受験生になると、春先から繰り返し担任と二者面談が行われる。進学校だったのでことさら勉強面についてはうるさくいわれた。私の場合はネックになっているのが古文だった。模試で中々得点が上がらない私をみかねた担任に呼び出された時、たまたま彼がその教室を通りかかった。背が高い彼を目敏く見つけた担任は彼を中に招き入れて、私の先月の模試の結果を見せた。あまり面識のない先生に簡単に模試の結果を晒されたということ自体はとても恥ずかしいことだ。成績だけで私個人を値踏みされてしまいそうで、あまり他人に見せたくはない。

「中在家先生は確か専門が古典でしたよね。模試の成績を上げるにはどうしたらいいと思います?」

 じっと細かくその得点の配分を眺めているのか、彼はしばらく無言で何か考えていた。他の教科の成績ももちろんのこと載っているのでそれとも対比させているようだ。目の動きを見ているだけでそれがわかる。

「文法自体の基礎は、できています。あとは語彙力と本人のやる気だと」

 やる気。確かに勉強するという事柄に限らずなにか行動を起こすとき最も根本的に必要なことだ。苦手意識が元々古典につは強いので、やっても意味ないだろう。そういう気持ちが根強く残っている。昔から苦手なのだ。今更やったところで変わるわけがない、と。そういう感情を見透かされているのだろうか、中在家先生の言葉は私の心にぐさっと突き刺さった。

「見れば、小説などは特典が高い。読解力はあると思います。英語と同じように語彙力がなければ古文も読めません。語彙を増やして読める文章が増えてくれば、楽しんで本文を読めるようになるのではないでしょうか」
「……楽しんで読む?古文を?」

 私は思わず聞き返してしまった。あの堅苦しくて、意味のわからない文章を楽しんで読むことができるのだろうか。驚く私に対して苦笑を浮かべながらも、ゆっくり言い聞かせるようにこう告げた。

「勉強と思わずに、読書をするように読んでいけばいい」

 幸い、私は読書をすることが苦手ではなかったので、読書の楽しさをよく知っている。今までは自分のわからない言葉だと、それも英語と異なり日本語でわからない言葉が綴られているから余計に違和感が絶えず嫌っていた。勉強をはかどらせるためには、克服することが一番大切だ。好きこそものの上手なれ、とよく言うだろう、と続けて口にした彼の言葉は確かに通りだった。

「まあ、夏休みが鍵だな。中在家先生もアドバイスはしっかりしてくれるだろうし、頑張りなさい」
「……はい」

 私の返答と同じタイミングで彼も小さく頷いた。それまで、中在家先生は遠目に見ているだけの人だった。無表情で、何を考えているのかあまり顔にもでないし、ましてや口を開くことは滅多とない先生だということを後輩との噂で聞いていた。もっと怖い人なのかと思っていたが、実際は言葉を口にすることを控えているだけで、優しさの塊みたいな人だった。数日後、勉強法を教えてもらおうと彼を訪ねた時に、より一層深くそれを理解した。解らない部分を質問すれば、丁寧に文節ごとに分解しながら読み方のポイントを教えてくれた。また、どのように勉強すれば頭に入りやすいのか、お勧めの参考資料集などもがさごそと山のように積み上げられた問題集の中から一つ取り出して、さらっと読ませてくれた。先生が生徒に勉強を教えるというのは仕事なので当然だ、と思うかもしれないけれど、何百人もの受験生を抱えるこの学校でここまで親切にしてくれる先生はあまりいない。生徒として向けられたその優しさに、苦い気持ちはもちろん浮かんできたけれど、冷たくされるよりも優しくされた方が嬉しいに決まっている。徐々に私の古典の勉強量は増えた。



 夏が過ぎて、冷たく短い冬も終わりを見せ始めた。まだ、寒い日が続くけれど、太陽の日差しは暖かい。三月の風が辺りに靡く中、私は卒業を迎えた。センター試験の結果を乗り越えて、前期の入試も終えた。結果はまだ未定だ。将来の行く先が見えてこないまま、多くの人が卒業式に出席した。涙は出てこなかったけれど、価値のある高校生活だったとクラスの皆の顔を見渡した時に、素直にそう思えた。

 そして、今、私は中在家先生と向かい合っている。静まり返った国語準備室で、視線を合わせるために顔をあげた。彼はとても背が高いので、女子の平均身長以下の私にとっては目線を合わせることすら大変である。けれど、今日が最後となるので、しっかりと彼の表情を目に焼きつけたかった。先生は、いつもの無表情だった。

「本当にありがとうございました。先生が居たから、古典を最後まであきらめずに勉強することができました」
「それは、お前が努力したからだろう」
「後押ししてくれたのは、先生ですよ」

 出来る限りの笑顔を浮かべたつもりだったが、頬が引きつっているかもしれない。これから私が口にすることは半年間抱えてきたものだから、言葉ばかりに意識が集中してしまって細かい頬の筋肉を上手く動かせている自信は皆無だ。本当は最後まで迷っていた。告げないまま、思い出として学校を去ることもできるはずだ、と。だが、私は自分の感情を吐露したかった。受け入れられるとは到底思っていない。ただ玉砕覚悟でいても、その短い台詞を言うのにはとんでもない勇気が必要だというのは事実だった。

「好きです」

 口にした言葉は重くその場にのしかかった。どくどく、と煩く心臓が早鐘を打つ。次第に体中の血が顔集まってくるのがわかった。熱い。まだ梅も顔を出していない時期だというのに、とんでもなく、熱い。心臓が痛かった。彼の表情は変わることなく、緩むこともなかった。ぴくり、と短いその台詞を耳にした瞬間肩が動いた気がするのだがそれも私の都合のいい錯覚かもしれない。沈黙が辺りを包んだ。居た堪れなかったというのは正直なところだけれど、ずっと心のうちで抱えてもどかしく過ごしてきた時に比べればすっきりとしていた。口にすることで、靄が晴れた様な気分だった。返答を待たずに、私は目を細めてこう告げた。

「大学に入っても、頑張ります。ありがとうございました!」

 ありきたりな言葉しか出てこなかった。先生にとっては一生徒にこのようなことを言われて、答えを強請させられること自体、迷惑なことだろう。いい歳をした大人が成人もしていない子どもに好きだと言われて困らないはずがない。それでは、と踵を返して、友人の待つ教室へ行こうとした。さっきからずっと教室は受験生だったころのシンとした静けさが嘘のように、ざわついている。いたるところでおめでとう、という言葉が飛び交って、泣き声も聞こえていた。このまま教室に戻って泣いたとしても誰も失恋したとは考えないはずだ。一歩踏み出そうとした瞬間、素早く左腕を掴まれた。強い力が私の動きを止める。きょとん、として振り返れば、先生が数センチしか離れていない場所まで近づいていた。その距離にぎょっとしてすぐさま離れようとしたが、成人男性の力に敵うわけもなく、微動だにもできなかった。大人しく、中在家先生の動きを見つめることだけが私に許されていた。

「え、あの、どうしたんですか」

 じっと、彼の目が何かを訴えかけるように、私を捉えた。彼が何か告げたいことがあるというのは表情をみればすぐにわかる。けれど、中々、彼の口は開かなかった。戸惑う様に視線が揺れて、口にするべきか、しないべきか迷っているようだ。私は、思い切って右手を彼の手に重ねた。初めて触れる先生の手はとても冷たかった。それとも、冷え症とは無縁な生活を送っている私の手が暖か過ぎるのだろうか。

「俺も」

 囁くように言葉上から落ちてきた。低くて、耳に馴染みやすい心地よい声が鼓膜を震わせる。

「同じ気持ちだといったら、どうする」

 するり、と肌を滑るようにあいている方の手で私の頬を撫でた。ひんやりした指先に輪郭をなぞられて、体全身が震えた。もちろん、冷たさのせいだけではない。彼がたった今口にした言葉は、神経全てを麻痺させたかのような鋭い衝撃を与えたのだ。ふるふると自然と肩が震えてしまっている私を探る様な眼で彼は真剣に見つめた。

「冗談は止めてください」
「俺は、事実しか言わない」

 ぴりっとした視線が交差した。腕の拘束が解かれて、大きな手が私の両手を包み込んだ。

「……嬉しい、です」

 涙声で私はようやっとそれを口にした。先生はほっとしたように目尻を下げる。その表情を見て、彼が愛おしくてたまらなくなった。感極まって抱きついてしまえば、彼は珍しく焦ったように「ここはまだ学校だ、、落ち着け」とこの言葉を三度も繰り返して口にしていた。私は聞こえない振りをして、幸せをかみしめるようにぎゅっと腕の力を強めた。




春に鳴く

101223   ( title by.cathy