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 祖母に用意してもらった二人分のお弁当箱を籠に入れて、颯爽とベダルを漕ぐ。じりじりとした暑い日差しが身体を蝕むけれど、これも夏にしか味わえないと考えれば前向きに捉えられる。今だけ今だけ、と限定されることに日本人は弱い。クーラー生活の長かった自分には大変な環境の変化ではあったが、案外楽しめていることがとても嬉しかった。私が向かおうとしているのは、昼間にも丁度いい木陰のできる例の川の畔である。鉢屋三郎というちょっと変わった高校生と出会ったのは三日前。けれど私はあたかも毎日の恒例の行事のように軽快に祖父の畑を抜け出してわざわざこの場所までやってきていた。

 彼は毎日此処にいる。「飽きやしないのか」と問いかけると「別に」となんとも味気ない答えが返ってくる。私はそんな変わった彼と話をすることが楽しくて、今日はお弁当まで持参してしまった。昨日、お昼に押しかけたところ彼は弁当もパンもおにぎりさえも持っておらず、私は自分一人でむしゃむしゃご飯を食べるというなんとも心苦しい時間を味わったのだ。彼は「勝手に食え」と言っていたが、私だったら隣で人がお弁当を食べているのに自分には何も食べるものがないという状況は耐えがたい。口の中が唾液でいっぱいになってしまう。視線は逐一口元に注がれるだろう。食いしん坊だと思ってくれて構わない。紛れもない事実なので。

 もう少しで川が見える。橋を渡りきったその先に、本を顔に被せてごろんと寝転んでいる鉢屋がいた。ジーパンに白のTシャツと相変わらずカジュアルな格好だ。姿を見つけてにんまりと顔が歪んだ。自転車を路肩に停めて、するっと滑るように降りた。

「三郎くーん、お昼御飯です」

 分厚い背表紙の本を退けると、眉をいっぱいに歪めた鉢屋が不機嫌そうに目を開けた。寝起きが最悪なパターンだなこれはと思ったけれど、悪態をつくということは彼の日常的な態度なので気にすることはないと完結させた。鉢屋はくああと大きく欠伸をしながら身体を起こした。アイマスク代わりになっていた本を返すのと一緒に、私よりも一回り大きなお弁当箱を差し出した。鉢屋はちょっと目を大きくさせて自分を人差指で指さす。「自分のか」と問いかけているのだ。その動作がなんだか可愛らしくて軽く笑いながらこくりと頷いた。

「別にいらないのに」

 ぼそぼそと呟いてはいたが、手はすでにシンプルなボーダー模様が入った包みを開けていた。弁当箱の中には祖父母の畑で採られた野菜をメインに使ったおかずが並べられている。茄子のしょうゆ煮に、きんぴらゴボウ、定番の卵焼きから私のリクエストでたこさんウインナー、そして彩のプチトマト。運動会のお弁当のように可愛らしい仕上がりだ。「どうどう?」と言わんばかりに鉢屋の顔を覗き込むと複雑そうな表情をした彼がこちらへと視線を向けた。

「これ、が作ったのか」
「いや、一応手伝ったけど、ほとんどおばーちゃんが作ってくれた。自分で作ったら半分以上が冷食になるからねー」
「……へえ」
「白けた目でみるんじゃない」

 毎朝早起きしてお弁当を作るのはとても大変なんだぞ。一人暮らしだと他の人の分まで用意する必要が無いから、作りがいが無くてどうしても手抜きをしてしまいがちだし。言い訳がましくそのようなことを口にすると呆れたような溜息が聞こえた。それでも綺麗に盛りつけられたお弁当に食欲をそそられたのか箸を取り出しひとくち、またひとくちと口に運ぶ。手は止まることがなくスムーズに動く。それを見て安心する自分がいた。細い身体と私とは正反対の青白い肌の鉢屋の身体を見ていると心配にだってなってしまう。「美味しい?」と問いかけるともごもごと口の中のものを咀嚼してから「まあ」と答えた。美味しいならもっとそれを表情に出して食べてもらいたいものだ。

 快調に伸びていた手がぴたりとお握りのところで止まる。ひょいと大ぶりのそれを右手で掴んで、納得いかない様な険しい表情をした。

「おむすび握ったの、だろ」
「うん」
「形が汚い。無駄に大きい。食べにくい」
「……こんなもんだよ? 自分としてはよくできた方だと思うけど」

 きちんとした三角の形になっているので歪とまでは言わない、いや言えないレベルのはずだ。確かに私はそれほどお握りを握ったことはないけれど、それでも見るも無残なほどの腕前ではない。けれど彼は「おむすびは断じてこんな形ではない」と言うのである。失礼な。人が折角握ってやったものを。日の丸弁当では寂しかろうという心遣いの結果なのに。

「三郎くんのお母さんがすごくお握りをつくるのが上手なんだけだよ。普通はこんな感じ」
「……そういわれるとものすごく不快だ」

 じっと彼に言わせれば歪なお握りを見つめて、ぱくりと口に入れた。先ほどの私の言葉にどこか彼の機嫌を損ねるような部分があったかどうかは疑問に思ったが、複雑な家庭環境が一瞬想像されたので敢えて深く掘り下げはしなかった。確かに見た目も大事だが一番重要なのは味なのである。胃の中に入ったら一緒なのだから多少の歪さは我慢していただきたい。

 空っぽになったお弁当を終い直してお昼の農作業が始まるまで、他愛もないことをしゃべる。私の一方的な独断場かといえばそういうわけではなく、きちんと彼は返答や相槌を入れてくれていた。最初は無口な印象が強かったが、人見知りなのかなんなのか慣れてくると関心のあることには熱心に話しをしてくれた。意外だったのは彼がとても読書家であるということだ。私も大学時代は特に余暇がたくさんあるので読書に時間を割いていたが、彼は私が読んできたほとんどの本を読破していた。私が有名どころをピックアップして読んでいく傾向にあるというのも被る理由だろう。彼も私同様で好きな作家が特にあるわけではなく、雑多に読んでいくタイプだそうだが読書量が本当に多いのだ。髪を茶色に染めて、耳にピアスまでしている男子高校生が夏目漱石を読んでいる姿は中々想像できない。

 他愛もない会話を続けているとぱん、ぱん、と何かが打ちあがる音が聞こえた。私も鉢屋もなんとなく音がする方向へと視線を向けた。この時期になると、それがなんの音なのか自然と解るようになる。花火の音だ。昼間なので見えやしないのに、音につられて顔を向けてしまう。今日は毎年この辺りでお盆に開かれる夏祭りがある日だった。小さい頃から何度もこのお祭りには足を運んでいる。田舎の小さな祭りなので花火も規模にあった小じんまりとしたものだが、夏の風物詩ということで幼い頃は毎年楽しみにしていた。今年はまだ、花火を見ていない。行きたいなあとぽつりと思う。祖父、祖母を誘ってみるのもいいけれど……目の前に格好の人物がいるのを忘れてはならない。

「……夏祭り、一緒に行かない? どうせ暇でしょ、三郎くん」
「俺?」
「うん。あ、もう誰かと行く予定あったりとか」
「それはないけど」

 吃驚したような表情をしている。やっぱりこんな年上のオバハンと行くのは嫌だろうか。鉢屋は珍しく口にすることを躊躇っているような仕草を見せた。もごもごと動く唇はなんとか言葉を紡ごうとしている。しかし、タイミング良く彼の返答を遮るように、頭上から大きな声が聞こえてきた。

「そこにいるの、か?」

 聞き覚えのある声に顔をあげると、青い作業着を着た竹谷が橋の上からこちらを覗きこんでいる姿が視界に入った。彼は私がそこにいるということが解ると、ひょいと脇から回り込んで川岸へと降りてきた。タオルも首に巻いたままで、仕事途中だということが見てすぐ解った。

「はっちゃん! どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……小学生が川辺で一人で遊んでんのかと思って注意にしに来たんだよ。まさかお前がいるとは思ってなかった」
「あ、路肩に自転車停めっぱなしだった。ごめん。ちょっと話しこんでて」

 驚いているのか呆れているのか、口調は脱力したものになっていた。すっかり良いお兄さんをしているようである。昔は率先して川辺で遊んだり、調子に乗ってやらかしていた子どもだったのになあと懐かしい思い出が一瞬蘇った。

 竹谷の視線が私の横に移った。首を傾げる。恐らく見たことのない顔だなとでも思っているのだろう。不思議そうな声色で問い掛けてきた。

「どちらさん?」

 近所付き合いが広く、ほとんどの住民と顔見知りである田舎では知らない人がいるということが珍しい。しかし、都会に出た親戚一家がお盆に帰省することも在り来たりなパターンなので遠まわしに「何処の家の親戚の子?」と聞いているのである。鉢屋は私に返したようなぶっきら棒な返答をするのかと思えば、そうではなかった。

「鉢屋三郎」

 さらっと彼は自分の名前を口にした。私に対するあの生意気な態度はなんだったのかと思わなかったわけではないが、彼の横顔があまりにも真剣さを帯びていたので口を閉ざした。漠然とした違和感を彼の表情から読み取る。異様な緊張を彼から感じたのだ。竹谷もそんな鉢屋の様子に少し疑問を持ったようで、軽く目を瞬いた。けれどどう言葉に表していいのかわからなかったのだろう、気にせず自らも名乗り返す。

「俺は竹谷八左ヱ門。鉢屋っていう名前に聞き覚えはないんだが」
「母型の親戚だから」
「へー、お母さんの旧姓は?」
「……不破」
「なるほど、不破さん家か。なら納得だわ」

 一人で頷いている竹谷に乗っかるようにして私も口を開いた。

「何が納得なの」
「んー、……まあいろいろ。見たところ高校生か?」
「ああ」

 竹谷はくしゃっとした人懐っこい笑顔を浮かべて自分よりも頭一つ分小さい鉢屋の頭をぐりぐりと撫でた。非常に居心地悪そうな気持ち悪いものを見る様な目で竹谷を睨んでいる鉢屋は、それでも手を叩き落とすなどといった抵抗は見せなかった。嫌そうな感情が現れているのは表情だけだ。その時、ぴぴぴと聞き覚えのあるアラーム音が鳴った。携帯を取り出して時間を確認する。そろそろ仕事に戻らねばならない時間帯だった。竹谷もこれから昼食に戻るということで軽トラに自転車を積んで畑まで送ってもらうことにした。

「じゃあ、三郎くん。今日の夕方、5時くらいにここに迎えに行くから」

 「待っててよ」と一方的に告げた。後ろから「まだ行くとはいってないんだけど」と呟かれたが聞こえなかったことにする。彼は嫌なら嫌ときちんという人間だ。「行かない」ときっぱり言われなかったのでつまりは了承したという解釈をとってもいいだろう。空っぽになった弁当箱を二つ抱えて、鉢屋と別れた。





 軽トラのエンジンがかかる。同時にふっと涼しい冷気が辺りに蔓延し始めた。アジカンの曲が車内に響く。カセットテープが詰め込まれた専用のボックスに手を伸ばして、「これでいいか?」と聞かれる。いまどきカセットテープとはなんとも希少価値が高い。私は「うん」と頷いた。アジカンは結構好んでよく聞いている。

「夏祭り、アイツと二人で行くの?」
「うん。なんか暇そうにしてるから、連れ出してみようかと」
「ふーん」

 彼はどうして私が鉢屋とそれほど仲良くなったのか。何時知り合ったのか。なんて深いところまでは聞いてこなかった。聞かれたところで答えようがなかったのだが、どうも竹谷は鉢屋に対してある種の関心を抱いたのではないかと勝手に思っていたのでそのあっさり具合に驚いた。てっきり、もっと詳しく聞かれるのではないかと思ったのだ。先ほどの「なるほどね」の言葉も意味深である。

「はっちゃんは誰と行くの。やっぱり彼女とか?」
「嫌味か。彼女いねーよ。毎年屋台のバイトだよ、夏祭りは」
「そうなの? 彼女いそうなのに、意外だ」

 幼いころから竹谷は人見知りをしない性格で――だからこそ、一週間やそこらしかいなかった私たちのような子どもともすぐに打ち解けることができていた――幅広く友好を築けるタイプであったから女の子からしたら話しかけやすく、このまれるタイプのはずだ。それに顔も私の個人的な意見だけれど、悪くはない。竹谷はほんの少し沈黙した。

「……それ本気で言ってる?」
「うん」

 恐る恐る、という表現がぴったりな聞き方にぷっと軽く吹きだした。どうしてそこまで驚くのだろうと考えて、ああ、と納得する。彼はもしかすると恋人ではなく友達として多くの人に好かれるタイプなのかもしれない。友好関係から中々恋愛に発展しないという惜しい感じなのではないだろうか。よい意味でも悪い意味でも、良い人だから。モテそうだね、なんて言われ慣れてないのかも。くすくすと込み上げる笑いを堪えるように肩を震わせると、不貞腐れたように彼は唇を付きだした。例え一本道といえど運転中なので視線はこちらへは寄ってこない。

「なんでそこで笑うんだよ」
「いやいやなんでもない。独り者の竹谷くんに早く幸せが訪れることを願ってますよー」
「そりゃどうも。……は彼氏いんの?」
「いない」
「お前こそ頑張れよ」

 「御尤もです」と苦々しい思いを掻き消すように笑みを浮かべた。笑い声が途絶えると共に、どちらともなく無言になる。一人身同士が恋愛話をしても何一つ盛り上がらない。話題の選択を間違えただろうか。透明な窓ガラスにこつんと頭を預ける。太陽に長い間あたっているせいか、ガラスはとても熱く感じた。





 夕方まで農作業を手伝ったあと、祖父の軽トラックで例の川岸へ迎えに行った。鉢屋はちゃんと其処に居た。ぴちゃんと素足を晒して川の水に浸している。冷たくて気持ちよさそうだ。読書をしていたはずの彼だが、よほど気配に敏感なのか私の草を踏む音を聞きとめてぱっと顔を上げた。やっと来たかというような顔をしていた。昼間はあまり行きたくないと主張していたが、ここにまだ座っているということは言う程嫌ではないのだろう。

「待った?」
「かなり」
「中々終わらなくて。ごめんね。じゃあ、いこうか」

 鉢屋を軽トラまで案内する。寡黙な祖父に対して鉢屋は意外にも礼儀が正しかった。「すいません。よろしくお願いします」なんて言えたんだと思ったのはあまりにも鉢屋に対して失礼だろうか。うちの祖父の場合は見目からして怖そうな外見なので自然と丁寧な態度になってしまうのも頷けるけれど。祖父はやっぱり言葉少なく鉢屋をじろっと見て、車に乗せた。彼が何処の誰で、どういう経緯で私と知り合ったかなんていうのはあまり気にしないらしい。

 そのまま先に帰宅した祖母が待つ家へと帰宅した。とりあえず私は鉢屋をお風呂へ押し込んで、身体を洗わせた。折角のお祭りなので浴衣を着きたらどうと祖母が言ってくれたのだ。私はお祭りの存在を覚えていなかったのでわざわざ浴衣なんて持ってきておらず最初は断ったのだが、両親が着ていたものがまだ残っているらしい。男性ものの浴衣のデザインはよくわからないけど、廃れのしないオーソドックスな柄だったので大丈夫だろう。

 私が風呂に入っている間に祖母が採寸を合わせてくれていた。サイズはそれほどズレがなかったようだ。定番の紺色の浴衣だが、男っぽい鉢屋にはよく似合いそうだった。

「着付けできんの?」
「うちのお母さんもおばーちゃんもできるからね。教えてもらった」

 「上手いもんでしょ」と笑い、腰にまわした手を動かしてきゅっと最後の帯をしめた。変な個所が無いか確認しながら裾をぴんと伸ばし、ぽんと膝の辺りを軽くたたく。昔からよく着付けが終わったら其処を何故か叩かれたのでこれは「終わったよ」のサインになっていた。鉢屋は袖をひらひらと弄びながら、物珍しそうに浴衣の着心地を確かめている。

「浴衣なんて久し振りに来た」
「ああ、今頃の男の子は甚兵衛着てる方が多いかもね。あっちのが着るのも簡単だし」
「……アンタは? 着ねえの?」
「これから着る」
「早くしろよ」

 「動きにくい」と渋い顔をしている鉢屋に「解ってるってば」と告げてから、私は襖の向こう側で祖母に手伝ってもらいながら着付けをした。鉢屋には縁側に座って待ってもらうことにした。フローリングの部屋がうちには一つもなく、だからこそ椅子も存在しなかったので浴衣の着崩れを気にしたら終始正座をしてもらわなければならなくなる。さすがに現代っこにそれはきつかろうと――私も正座は五分と持たない――ぶらんと足を放っておける縁側に座らせたのだ。ちりん、となる風鈴とだんだんと暗くなる山の姿が一望できる祖父母の家の縁側は私の大好きな場所の一つ。冷たい麦茶と軽い茶請けを口にしながら景色を見ているとこれ以上ないほど和むのである。すっかり準備を終えた頃には辺りは薄暗くなり始めていた。ここから神社へ向う道まですっと赤いぼんぼりが立っているのが見える。いつもの静けさとは全く異なる、心の奥底からわき上がる様な高揚感を伴った風景がそこにあった。

「あんまり遅くならないようにね」
「解ってる。いってきます」
「色々と、ありがとうございました」

 祖母に見送られて、私たちは祭りへと急いだ。

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