01



 夏の強い日差しに煽られる様に、蝉の鳴き声が響く。広がる緑色の森林と真っ青な空が私の目にこれでもかというほど眩しく映った。すうっと自然の草木から香る独特の匂いを肺一杯に吸い込む。少し泥くさい気もするけれど、それこそが懐かしくまたうれしく感じるので人の感覚とは本当に不思議なものである。

 無人駅の近くにある一日に数本しか出回らないバスに乗り、私は祖父母の家を目指した。がたがたと揺れるバスの音は心地よい。この土地を訪れなくなって、何年になるだろうか。それこそ小学生の頃は毎年のように両親のお盆休みに合わせてこの田舎へと足を運ばせていた。夏休みに田舎に遊びに行くというのは子どもにとっては一種のステータスだった。現代では田舎に帰る実家を持たない家族はとても多い。少なくとも私の通っていた学校では希少な存在で、男の子たちから特に羨ましがられた記憶もある。ただ、中学、高校になると部活などで休日が縛られてしまうことが多い。上の兄が野球部に所属してからお盆も返上で部活をしていたのでその辺りからぱったりと足が遠のいていた。ただ、あまり景色は変わらない。色あせていた過去の記憶だった分、より一層目の前の光景は鮮やかに見えた。

 バスを降りてから数十分の道のりを歩く。最寄りのバス停から距離があるのは難点だが、坂道ではなく真っ平らな盆地なのは幸いだ。一面に広がる田んぼを物珍しく眺めながら、歩く。近くに小さな川が流れており、水がさらさらと流れる音は耳に心地よかった。暑さだけが私の体力を奪っていく。都会のように地上からにょきにょきと生えたビルがないので、路上に影ができにくいのである。真向から太陽の光を浴びるので、キャップの帽子を被っていても、暑い。日焼け止めを十分に塗りたくってきたため、べっとりとした感覚もしている。祖父にトラックの迎えを頼めば良かった。これくらい歩けると高をくくったのが間違いだ。家に着いたらまずは一服させてもらおう。若干の後悔を抱えながらも足は止まることなく進んでいった。祖母が用意していてくれるであろう冷たく冷えた麦茶を想像すると自然と歩みが速くなるのだ。

「あー……いいなあ、涼しそうだ」

 橋を渡る途中に素足を川に付け、木陰で昼寝をしている青年を見かけた。バスの運転手さん以外でこの田舎に辿り着いて初めて出会った人間だ。見たところ絶好のお昼寝場である。私も滞在中に機会があれば一度は川遊びしたいなあ、なんて横目で見ながら通り過ぎた。





ちゃん、いらっしゃい。よく来たねえ」

 がらがらとキャリーバックを引きながら現れた私を出迎えてくれたのは台所で丁度昼ご飯を作っていたおばあちゃんだった。玄関に入った途端にすんといい匂いが私の鼻を刺激する。祖母とは電話ではたまに話していたけれど、実際に顔を合わせるのは本当に久し振りだった。記憶の中にある彼女よりも随分と小さくなっていて、思わず私は皺苦茶の手を握った。

「久し振り、ばあちゃん」

 にっこりと笑い掛けると、くしゃっとした皺が目尻にできる。年を重ねた証拠だが、より優しさが表情から垣間見えてくるようでむしろ可愛らしく見えるから不思議だ。
 
「ホントに大きくなって……今年何歳になるんじゃったっけ?」
「二十二歳だよ。ところでじいちゃんは? まだ畑にいるの?」
「ああ、そろそろ帰ってくると思うよ。とりあえず上がり。疲れたろ?」
「うん、超疲れた。お邪魔します!」

 横引きの玄関をしめて、木で出来た昔ながらの床を裸足で歩いた。赤いペディキュアにおばあちゃんは驚いたようで「すっかりお姉さんじゃね」といって笑った。空調の利いた畳みの部屋に腰を下ろす。触れた畳みの冷たさに思わず頬を擦りつけたくなりごろんと横になった。このままお昼寝したい、と先ほどの暑さとの大きな違いに幸せをかみしめているとがばっと勢いよく襖が開いた。大きな麦わら帽子をかぶったままの祖父がそこに立っていた。随分と白髪が増えて本当におじいちゃんらしくなった。背が高い人なので私より身長はあるけれどそれでも老けたなあという印象はぬぐえない。だらしなく横にしていた身体を反射的にばしっと起こして祖父を下から見上げた。

「じいちゃん、久し振り」
「ああ」

 このようにやり取りが至って簡潔なのは、記憶の中の祖父は厳しく無表情で怒ってるのか喜んでいるのかよく解らない人だったからだ。小さい頃、両親の躾に対して駄目だしをしたり、怒られていたのを覚えている。根は優しい人で、子どもころ率先して「やりたいやりたい!」と言ったことをやらせてくれた。例えば、トマトの収穫。刃物を持つので危険だし、子どもがそこに居ること自体作業の効率を悪くするのだが祖父は私が飽きるまでそれに付き合ってくれていた。今よりはまだしっかりしていた手が私の小さな手を上から握ってぱっちんと赤く実ったトマトを切り落として収穫した時のことを私は今でもよく覚えている。じろり、と祖父の視線が中途半端な体制の私を睨んだが、そのまま視線は顔へと戻った。真っ直ぐ目を見て話すというのも祖父から教わったことだ。

「よう、来たな」

 それだけポツリと言って、襖を閉める。素っ気ないなあとその時は思ったので、お昼ごはんを食べた後、「じいちゃんは相変わらずなんだね」と祖母に話した。すると祖母はかちゃかちゃと水と陶器が擦れ合う雑音に紛れてこっそりと教えてくれた。

「あの人ねえ、作業帽子を外すことも忘れて、帰ってくるなりは来たかって真っ先に聞いてきたんよ」

 さすがに長年連れ添っているだけはある。「ホントにもう」なんて言葉を付け足してはいるけれどそういう照れ屋な祖父に可愛らしさなんてものさえ感じているのだろう、顔は全く困っていなかった。そういう人なのよ、と全てを受け止めている。三人分の少ない食器を片づけて、祖父はまた畑へ戻り私は今日はとりあえず室内で祖母の手伝いをすることにした。

 私がここに訪れたのは、大凡は気まぐれである。大学卒業間近となって―就職は既に内定をもらっていた―スケジュールにも余裕が出てきた頃、ふと今までの都会での生活が急に窮屈になり、こうして自分の持っている伝手を探し出して田舎へと遊びに来た。羽を伸ばしにやってきたというよりも普段と違うことがしたかったといえばいいのか。子どものころの自分にとってここは非日常を体験できたもっとも気軽な場所であり、それを偶然にも思い出したのでこうして連絡を取ってやってきたのだ。もちろん、何年かぶりにあった祖父母と沢山話して帰りたいというのも事実だった。





 次の日の朝、鶏の鳴き声と共に私は起こされた。まだ日は完全に上がってはおらず、青く仄かにピンク色をしたこんな朝の空を見たのはとても久しぶりだった。寝ぼけ眼で再び布団にへばりつこうとすると、「はよ起きや」とばしんと頭を軽くはたかれた。祖母はこんな乱暴なことはしないので祖父だろう。目を開ければ案の定既に仕事着に着替えている祖父が枕元に見下ろすようにして立っていた。

「顔洗ってこい。飯食うで」
「はーい……」

 流石お年寄り。早起きは慣れたものである。私も昨晩は疲れがたまっていたので二人とほとんど変わらない時間に寝たのだが身体はやはり慣れないのか、惰眠をむさぼることを欲していた。だらだらとしていたらまた祖父に怒られかねないので眠気を堪えて起きあがる。とりあえず寝巻から私服に着替えた。窓を開けてすっと朝一番の空気を肺一杯に吸い込む。空気が冷えていて、おいしい。清々しい夏の朝の味がした。

 朝からご飯にメインのおかずに副菜と汁物といった豪華な朝ごはんを食べた。日本人の昔ながらの朝食といった感じだ。忙しい時にはお握り一つで済ませてしまう、むしろ食べないで学校に行くことも多くなっていた私は目を輝かさんばかりに喜んだ。むっしゃむっしゃと祖母の手料理を食べた後、私は二人と一緒に畑へと出た。今は夏野菜の収穫の時期である。一番、育て手にとっては遣り甲斐を感じる作業を手伝わせてもらえることになった。小さい頃から毎年それなりに手伝ってはきているので、大方の作業は覚えている。キュウリをぱっちんと鋏で切り籠に入れていく作業は手間ではあるが、楽しくもある。夢中で収穫していると、すぐにお昼になってしまった。一旦、収穫したキュウリを家へ戻す。トラックの運転はもちろん祖父だった。トラックの後ろにキュウリと一緒に乗っかってゆらゆら揺れるのは気持ちいいが、照りつける日差しに負けそうになり、今度からは大人しく助手席に乗ろうと決めた。

 午後からは祖父と祖母がまたキュウリの収穫へ出かけたが私は別途の用事を頼まれたので一人別行動だった。収穫されたてのキュウリで、あまり見目がよろしくないものを余りものとして近所のおばちゃんの家に配りに行くのだ。ここいらは近所といってもかなり家と家が離れており持っていくには少し難がある。トラックで配ってから作業してもいいのだがそれだと時間が掛ってしまうので、自転車で移動してもばてが来ない若者の出番といったところだ。頼まれた家も昔からお世話になっているところばかりだったので、ぼんやりと私の頭の中にも道順がイメージできた。

「じゃあ、頼んだからね」

 籠いっぱいのキュウリを受け取って、自転車に跨る。後ろで見送る祖母に片手を挙げて「任せといて」と告げてからしゃーと軽い坂道を降りた。ここから先は平坦な道なのでとても移動が楽である。滅多に車も人も通らない。簡単なお仕事だ。

 一件目は一人暮らしで住んでる私の祖母よりも大分年上なお婆さんの家だった。小さい頃から私たち兄弟を可愛がってくれて、遊びに行けばお菓子やらなにやら沢山くれていたことを思い出す。私のこともきちんと覚えてくれていて、キュウリのお返しに山盛りの和菓子セットをくれた。栗饅頭とか懐かしい。ごちそうさまです。

 二件目は私の両親くらいの年齢―五十を過ぎたか過ぎてないくらい―の夫婦の家で、丁度こちらは昼ごはんの最中だった。どうやら祖父が幾度か農業の手解きをしていたらしく、私は初対面だが名前と祖父の孫であることを伝えると快く家に招き入れてくれた。普通はここで怪しまれるのが確かだと思うのだが、事前に祖母から孫を向かわせるという連絡もあったらしくすんなりとお邪魔させてもらった。今度はキュウリの代わりに真っ赤に成熟したトマトをビニール一杯に入れてくれた。こちらも収穫されたてのようで、つやつやとした肌が眩しく目に映る。

 三件目は私が最もよく通ったおばちゃんの家だった。実質的に血縁はないのだが「おばちゃんおばちゃん」とまるで実の叔母のように遊びに行っていた。それもこれも、こちらの息子さんと私たち兄弟の年齢が同じ位であり遊び相手として丁度良かったからである。久し振りに顔を見せた私に対して、おばちゃんは「あらぁ」と驚いたような高い声を一つ挙げた後、嬉しそうに駆け寄ってくれた。「ちゃんよね?」と懐かしそうに彼女に対して笑顔で大きく頷く。

「御無沙汰してます」
「まあまあ、すっかりべっぴんさんになって。……これ、もしかしておばあちゃんから?」
「はい。採れたてなんです。よかったらどうぞ」
「こんなにたくさん! 有難いわぁ。そうだ、よかったら持って帰って。うちの西瓜」
「西瓜? いいんですか」
「もちろんよ。ちょっと待ってねー」

 ビニール袋を手に提げて玄関口へと急ぐ彼女の後ろを小走りで追う。西瓜か!と内心は嬉しく思っていたがこれは行きよりも帰りの方が荷物が重くなりそうだ。

「八、そこに置いてる西瓜一つ持ってきて!」
「あ? 西瓜……?」

 のっそりと白いタンクトップとジーパン姿で現れたのは、ここの次男である竹谷八左ヱ門だった。古風な名前なのはご両親の好みだという。短く切った髪の毛をぐしゃぐしゃとかきながら片手で大きな西瓜を持ってきた彼は、もはや私が知っていた少年時代とは大きく異なって、逞しい青年に成長していた。

 どう声を掛けるべきか迷ったので私は暫く黙って後ろの方で様子を見守っていた。が、竹谷の方が私の存在に気が付き、ぱっとその目を大きく見開いた。

「え、……おおおおお! お前、か?!」

 私のことをちゃんと覚えていてくれたらしい。一つ「うん」と頷いてそれから「久し振り」と笑い掛けた。彼も笑顔を返してくれたが、思い切り口の端っこが引き攣っている。私どこか変でしょうか、と服をちらっと確認した。確かにばりばり農作業してますという格好をしているが、目の前の彼も部屋着である。大して変りないだろう。

「べっぴんさんになってるから、うろたえてるんでしょう」
「違う! 純粋に吃驚しただけだっつの!」

 けらけらと母親にからかわれていたが、事情を説明すると西瓜を持って帰るのはいくらチャリでも大変だろうとトラックを出して祖父母の家まで送ってくれた。高校卒業と同時に免許を取ったらしい彼はもう随分と運転に長けていた。そういう部分にも子どもの頃とは違う一面が伺えて大人になったんだなあとしみじみ思っていた。なにより、荷物を多めに持ってくれたりだとか―小さい頃は荷物をどうやって相手に押しつけようか企み合っていたのに―そういうことが自然とできるようになった彼を見てむず痒い気持ちになった。

 竹谷とはまた後日積もる話もあるだろうということで改めて遊ぶ約束をした。そのことを夕飯の時間に祖父母に話すと、竹谷と祖父母は未だ交流があるらしく「いい子よねえ、八くんは」と祖母なんかはかなりお気に召しているようだった。一方で祖父が渋い表情から微塵も変わりはしないのは竹谷に対して何か複雑な心情があるからなのか。「まあ、そうだな」と祖母の言葉に同意するくらいで自分から何もしゃべらなかった。





 夕食が終わった後に、小腹が空いたので近くの七時までやっている商店までアイスを買いに行った。この辺りにはコンビニはないし、大型商店もないので、自転車でいける距離はそこの商店だけなのだ。都会では等間隔で存在するコンビニが存在しないとは、田舎とはなんとも不便なところである。

 からからと自転車特有の音を鳴らしながらペダルを漕ぐ。夕日が沈んだおかげで気温もいくらかさがり、涼しい夜風がするすると私の髪を撫でた。それは自転車を漕ぐことによってより体感でき、「涼しい」と思わず頬を緩めてしまったほどである。田舎では電灯が少ないので、日の入りとともにすっかり辺りも暗くなる。ところどころに設置された街灯だけが辺りを照らす道導となっていた。都会ではまず見れない光景だろうなあと息を吐いた。都会の夜は、きらきらとしたネオンの光で煩わしく感じるほど明るい。

 丁度川の合間にある橋を渡ろうとした時、なにげなく私は視線を下へと向けた。この道を通るのはもう三度目である。昨日の昼も、今日のお昼も見かけた少年がそこに座っていた。私は「あれ」と首を傾げて、思わず自転車を漕ぐのを止めた。キキッという高い音が鳴り響く。それほどスピードを出していなかったので反動も少なく直ぐその場に止まった。川の下の木陰から見上げる目と視線があった。

「何してるの? こんな遅い時間まで」

 すぐさまそう話しかけてしまっていた。昼間は涼しそうに川に足を浸していたが今はもうすっかり靴を履いて、体育座りでじっと私を見上げた。暗くて表情はよく見えなかったが、返答がすぐに返ってこないところからしても好意的とは言い難かった。いきなり通りすがりの人物に話しかけられて好意的な人など少ないだろうが。

「別に」

 ぷいっと顔を背けたその態度にカチンと来たが、私もいい大人である。このような時間帯に子どもが一人で川辺にいることを見過ごしては帰れない。いくら田舎とはいえど不審者が出没しないと言い切れるわけもなく、「早く帰りなさいよ」と注意する義務はあるはずだ。見たところ高校生くらいなので余計なお世話かもしれないけれど。私は自転車を邪魔にならない程度の端っこにとめてざっざっと川辺へ近づいて行った。

「家に帰らないの?」
「アンタに関係ねぇだろ」

 つれない返事を返す彼に再びカチンときたがここで怒りだしてはならない。あくまで冷静に。私は許可も取らず彼の隣へ腰を降ろした。嫌そうな視線が私を射抜いたけれどそんなことは気にしない。

「名前を聞いてもいい?」
「人に聞く時は自分の名前から言えよ」

気にしない、と言ったそばから「本当に生意気だなコイツ」と悪態をついてしまいそうになった。どうにかその感情を抑えて、極力笑顔で彼に向き直る。怪しげなものを見る目で睨まれた。そんなに胡散臭いですか、私。

「えっと、私は。貴方は?」
「鉢屋三郎」
「……三郎くんか。何歳?」
「アンタは」
「……二十二歳だけど」

 答えるまでに少し間が空いた。二十代前半ならまだ口にすることを躊躇う様な年齢ではないと信じたい。しかしながらそのあとぶっきら棒に「十六」と返って来た時は若さへの妬みがじわりと胸に浮かんできた。けして人生をやり直したいとかそういうわけではないのだけれど、若いということ自体が羨望の対象になるのである。十六歳ということは、彼は高校生だ。受験前で一番ふらふらしやすい時期だよなあ、と自分の過去の記憶と照らし合わせる。あの頃何をやっていただろうかと思い返したが、部活に懸命に励んでいた記憶しか存在しない。夏休みなんてその程度だ。

「余計なお世話かもしれないけど、送るよ」
「いらねえ」

 はっきりとそう返した鉢屋に私は心の中で「ですよねー」と思いながらため息をついた。本当にこの子はここで何をしているんだろう。典型的なのは親との喧嘩のあげく、罰が悪くて親が寝静まるまで家に戻れないといったものだろうか。思春期のこの時期なら進路のことやら学校のことやら親と揉める機会なんていくらでもあるはずだ。思春期を通り過ぎて社会人の仲間入りになろうとしている自分でさえもそのように無性に親に対して悪態をついてしまうような部分があるわけだし。なんて、私の個人的な妄想はここまでにしておこう。しかし、そういったことをいきなり聞くこともできやしないし、放っておいて帰りたいのは山々なのだが「それで本当にいいのか」というお節介な感情が私を此処に引きとめる。「うーん」と低く唸っていると不意に彼が小さな声でぽつりと喋った。

「早く帰れよ。それ、溶けるぞ」
「え? ……あ」

 ビニール袋を指さされて中身を取り出す。ふにっとした感覚のダブルソーダが顔を出した。アイスの存在をすっかり忘れていた。家に戻ってすぐに食べようと思っていたので保冷剤もなにもつけてもらわなかったのだ。袋を破くとなんとか原型をとどめているソーダが登場する。パキンと二つに割って、片一方を鉢屋へ差し出した。

「食べる?」
「……俺ダブルソーダよりもガリガリ君の方が好き」
「いらないんならあげない」

 善意で言ったのに可愛くない。青年の前で一人だけアイスを美味しそうに頬張るなんてできませんよ、お姉さんは。割ってしまったそれを両手で握りしめて鉢屋の前から遠ざける。やはり溶けるペースは速く、ぽとぽとと水滴となったソーダが棒の端を伝って地面へと落ちていった。もったいない。かといって一度に口に入れてしまったら冷たさで頭がキーンとなってしまうのは目に見えている。あの痛さが夏らしくて好き、という人もいるかもしれないけれど私は好んでしようとは思わない。美味しいものはゆっくりと味わって食べたいタイプの人間だ。慌てて頬張っていると左側の手をきついくらい引っ張られて口を付けてない方のソーダが奪われてしまった。もちろん、犯人は鉢屋である。相変わらずの不機嫌そうな表情で、「いらないとは言ってない」と口にしながらアイスに噛り付いた。反抗期の青年をそのまま形にしたような人間で私は思わずぷっと笑ってしまった。

 二人でお揃いのソーダを食べながら、空を見上げる。星空はいつも見ている空よりもずっと近い気がした。それに周りの明かりが少ないせいか一層輝いて見える。星空は冬の方が綺麗に見えるなんていうけれど、夏の夜空も悪くはない。

「三郎くんはここで何してるの」

 水色の美味しそうなソーダが消えてしまい、棒だけになった。手持ち無沙汰になった私は、ぼんやりと鉢屋にそう問いかけてみた。彼はめんどくさそうに私を横眼で見て、そしてごろんと横になった。「答える義理なんかない」ということらしい。

「アンタは何しにこんなド田舎に来てんの」
「ん? 私、県外から来たって言ったっけ」
「方言が出てないからすぐ解る」
「ああ、なるほど」

確かに、ここでは方言離れが著しい若者でも多少は方言の交じった言葉を話す。余所から来た人間ならイントネーションの違いは解りやすいはずだ。

「私は最後の夏休みを満喫しに」
「大学生はいいよな、暇そうで」
「まあ無駄に休みは多いけど、それももう最後だよ。働き始めるとこんな休みはなくなるからね。高校生の君も暇そうだけどね?」
「暇じゃない。……人を探してる」

 こんな田舎で人探しをするのか、と私はすぐに疑問に思った。人口が少ないどころか町中がお知り合いの世界だ。知らない人などこの辺りには存在しない。この町の面積は広いけれど、それは人が住んでいない森林や田畑を含めてであって、実際には自転車かなにか乗り物があれば二日間くらいで人の住んでいる家はまわれてしまう。つまり、彼の探している人はここにはいないんじゃないかということだ。

「あれ……ってことは三郎くんもここの人間じゃないってことか」
「ああ。親戚がここにいるから、そこに泊まってんの」

 なるほど、鉢屋という名前に聞き覚えが無いのもその為だったのかと納得する。しかしそれなら尚のこと普段使わない見慣れない土地なのである。親戚の人たちも心配するのではないだろうかと帰宅を進めてみるも、彼は全くここから動く気はなさそうだった。ちょろちょろと川の水音だけが辺りに響く。

「晩御飯なくなっちゃうよ。お腹空いてないの」
「空いてない」
「玄関の鍵しめられちゃうかも」
「鍵持ってるから」
「このあたりは夜遅くなると心霊スポットに」
「……あほらしい」

 さすがに最後の台詞は自分でもないなと思った。幽霊が怖いなら初めからこんな光のほとんどない場所に一人で座っているはずがない。

「そっちこそ、早く帰れよ。俺はしばらくしたら帰るから」
「ほんとに?」
「ホントホント」

 ひらひらと手を振りながら追い返すような仕草をする。「可愛くねえ」と遂に口にしてしまった私に対して彼は鼻で笑い返した。「褒め言葉だな」なんてよく言うよほんとにその口は。しかし、携帯を開くと既にもう時間は八時を過ぎており、いくら遅くなるとメールをしたといっても祖父母も心配しているはずだ。それに朝が早いのだしいつまでもここにはいられない。何度も何度も「ホントでしょうね?」と確認してその度に鉢屋がだるそうに「うんうん」と頷いた。そのやり取りを五回くらい繰り返して、私は鉢屋に促される様にして先に帰ることにした。降りる時は楽だったけれどここから上の道路まで登るのは一苦労だ。鉢屋は思ったよりも気遣いというものができる人間で、「しかたねーな」とぶつぶつ文句を言ってはいたが、先に這い上がって私の手を引いてくれた。結局のところ悪い人間ではないらしい。冷たい手のひらをぎゅっと握りしめて、私はなんとか登りきった。小さな声でぽそりと「重っ」と呟やかれたことに若干の悲しさを感じてはいたが。

「……ねえ、アンタさ、俺と昔どこかで会ったことない?」

 私は咄嗟に後ろを振り返った。以前、どこかで、鉢屋と。そのようなことがあっただろうか。彼の顔を凝視したけれど、引っかかるような違和感は存在しない。初めて出会ったといってすんなりと納得できる。その結論を出すまでおよそ1分もかからなかった。「覚えてない」と返した時の悲しそうな表情は、諦めに似たものだった。印象強く私の脳内に残り、消したくとも中々消えてはくれなかった。





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