現在時刻はちょうど亥の刻、先生方の見回りも終わり学園内も静けさに包まれている頃だ。私は息を顰めながら先生方、あるいは先輩方の部屋を避けながら男子寮へ続く天井裏を器用に渡っていった。目的の部屋を見つめてそろりそろりと板に耳をつけ、物音がしないか入念に確認する。人がいないということがわかると、天井板を一枚ずらし部屋を覗き込んだ。視覚でもそこが無人であることを確認してほうと息を吐いた。 なぜ私がこのような愚行を行っているかというと、そもそもの原因はこれから降り立とうとしている部屋の宿主にある。思い返せば面倒くさくて仕方ないのだが、明日が期限のためそんなことも言っていられない。気配を隠すことだけに神経を集中させてなるべく早く目的のものを取り返そうと意気込んだ。 ことの始まりは四日前。明日行われる火薬の試験に関して、予め講義が男女混合で設けられたのである。もちろん、単位を落とすわけにはいかないので私はきちんと講義の内容を書き取るため参加した。しかしながらどうやらあの鉢屋が他用で参加することができず、後日冊子を貸してくれとせがまれた、いや、脅されたのである。断ろうにも弱みをちらつかせられては断ることもできない。私が不破を好いているという事実をあろうことか鉢屋に知られてしまったのである。ぐうの音もでないほど追い詰められた末に私はそのとうとう冊子を渡してしまった。 何の音沙汰もないまま一週間が過ぎた。明日を試験に控えた今、ようやく取り返そうとこうして忍び込んでいるのである。表向き、くのたまは忍たまの母屋へは入室禁止になっている。もちろん、様々な事情によりそれを破っている者が多いのは確かではあるが、見つかったら罰則が待ち構えているのだ。それはさすがに避けたい。鉢屋だってそれは理解しているはずだろうに、とぶつぶつ心の中で零すもそれで状況が改善されるわけでもない。目的の場所へたどり着いたところで、カタンと屋根裏の板を反転させてすたっと着地した。宿主は時間帯からすれば湯あみに行っているかもしくは自主練に精を出しているかどちらかだと推測する。私は奴が戻ってこないことを期待しながら適度に整理された机の上を漁った しばらくがさごそと鉢屋の机を探しても私の冊子はでてこなかった。目につく場所には置いていないということだ。もしかしたら、誰かに又貸ししたか、現在鉢屋が保持して持ち歩いている可能性もある。そうであるとしたら厄介なことになる。大人しく鉢屋が帰宅するのを待った方がよいだろうか。顎に手を当てて考えていると、廊下から一つの気配がした。ざっと風の音を立てて天井裏へ戻る。部屋の主が襖をあけるまで、間一髪だった。 小さな穴をあけて、こっそりと中を覗き込む。視界が悪いので不破か鉢屋かはっきり断定はできなかったが、先ほど私が探っていた机とは反対方向の机の前に腰を下ろしたので恐らく不破であろう。風呂上がりなのか寝巻に手ぬぐいといった格好だった。いつも一つに結ばれているふわふわとした髪の毛がしっとりと濡れ肩にかかるまで下ろされていて、普段とは違う姿にドキリと勝手に胸が鳴った。目に毒だな、とその様子を見ながら心の中で溜息をついた。変な緊張が全身を巡った。 けれどもこれで私の冊子を取り戻すという目的は到底達成できなくなった。万が一ここで鉢屋が戻ってきたとしても姿を現すことは憚れる。というか、好きな人の前ではできるだけ大人しくしておきたいというのが本音なのである。随分と乙女らしくなったものだ、とそんな思考に直結してしまう自分に呆れながらも、くるりと踵を返した。その時。 「誰だ」 下から声が聞こえた。もちろん、不破のものだ。柔らかい声色ながらも、ぴしゃりと場を凍らせる響きを含んでいる。険しい顔つきで身をひそめていた天井を睨んでいたのが薄らと目に入った。気配を悟られない様に出来る限り消していたつもりだが、さすがに同学年のにんたまを誤魔化すことはそう簡単にできない。自分の心の動揺も気の乱れとして出ていたのだろう、軽く舌打ちしてカタンと天井裏の板をひっくり返して降り立った。寝巻姿でも、懐にはきちんと忍具を忍ばせている、その辺りはさすが徹底してある。その証拠にいつの間にか彼の手元にはクナイが握られていた。 「……さん?」 私ということまでは悟られていなかったらしい。顔をあげれば不破は驚いたように目を見開いていた。降りていたのが誰かということがわかれば、彼も鋭い視線をやや緩めたが、今度は不思議そうに首をかしげていた。私と不破の間柄はただの同級生、その枠から一切抜け出していない。大して仲良くもないくの一が部屋の天井裏に紛れ込んでいたとしたら、怪しんだり不思議に思うのも無理はないだろう。もともと普段からにんたまとくのいちは敵対関係―というには語弊があるが、少なくとも仲良くはない―にあるのだから、普通のにんたまならここは疑わしい視線を向けるのが当然であるはずだ。 「どうしたの?何か用事?」 しかし、不破は懐疑そうな表情ではあったものの、クナイを下ろし私にそう問いかけた。こういう時に彼が酷く純粋なのだなと実感させられる。くの一が実習としてにんたま母屋に忍びこみ私物を盗んで帰ったり、罠をしかけたり、それは割と頻繁に行われているのは事実だからだ。今回は完全に私用だったので、怪しい視線を向けられるようなことをしでかすつもりはないのだが。私は事成り行きを手短に説明した。鉢屋に火薬の冊子を貸せと頼まれたこと、しかし中々返しに来ないということ、明日が試験であるということ、強硬手段に出て取り返しに来たということなどを、だ。火薬の冊子、とその単語が出たところで不破はあっと心当たりがあるような声を漏らした。「もしかして」とごそごそとお世辞にも綺麗とはいえない机の上を探り始めた。 「もしかして、これかな」 とりだされた一冊の冊子は私が探し求めていた火薬の講義のものだった。「そうそれ!」と指をさせば一言の謝罪の言葉を彼が口にした。 「これさんのだったんだ。ごめんね、僕が三郎から借りてて」 「いや、あいつが勝手に持って行ったんだから。悪いのは鉢屋だよ」 どちらにしてもこう不破に言われると強く返せない自分は愚かなのだろうか。先ほどまではぶちぶちと零していた文句もごくりと喉を通って治まってしまった。これが鉢屋だったらばんばん言い返していたはずだ。手渡された本を胸の間に収めて、さて帰ろうか、と屋根裏を見上げた。第二の見回りの先生方が通る時間帯まで間がないことも確かである。私の考えを遮るように不破が口を開いた。 「さんは、三郎と仲がいいよね」 「えぇ、そうかな」 「よく話してるでしょ。さんもどことなく、三郎に対しては素で接してるように見えるし」 「まあ、気楽に話せる相手ではあると思う」 それは、弱みを握られていなかった時代の話であったが、確かに不破の言う通り鉢屋は淡泊な性格である自分とは相性が良い性格をしていた。底意地の悪いところはあるけれど、けして人の内情に深入りしない一定の距離間を保つのが上手な相手だ。鉢屋のそういうところは気が合っていた。しかし、何故、今彼がそんなことを話題にするのだ。「それが何」と言わんばかりの視線を投げつけると彼は困ったように微笑んだ。 「羨ましいなって」 双忍として学園中に常日頃から話題を提供している人の片割れとは思えない台詞だった。私からしてみれば、不破の方が全然鉢屋との距離が近しい様に見えるのだが。それとも、最近、鉢屋がよそよそしいのだろうか。喧嘩をしているとか。風呂から不破が一人で帰ってきた理由ももしかして仲違いが原因なのかもしれない。 「早く仲直りした方がいいよ。十中八九悪いのは鉢屋だと思うけど」 気の利いたことが言えず、ありきたりな文句が口から零れた。慰めたつもりなのだが、不破は私の言葉を聞いてきょとんとした表情を浮かべた。そして、肩を震わせて湧き上がる笑いを堪えるかのようにくつくつと喉を鳴らした。 「案外、鈍いんだね。さん」 「どういう意味?」 「僕が羨ましいのは三郎の方。さんと仲良くできて、いいなって思ってたんだ」 普段から成績が良いだけあって、鈍いとか疎いと言われることに慣れていない。不破の一言は少しだけカチンと頭にきたが、続いてさらっと彼の口からこぼれた言葉にしばし唖然としてしまった。これは、私と仲良くしたいと捉えてもいいのだろうか。どう答えればいいのかわからずに黙りこむと満遍なく広がった笑みが私の視界に入った。 「よかったら、友達になって欲しい」 「いい?」と綺麗な笑顔で問いかけられればこくりと頷くしかない。友達という言葉を聞いてじわじわと盛り上がっていた期待が見事に裏切られた。そういえば鉢屋が不破はとてつもなく鈍い奴だから覚悟しておけ、という意味のことを前に言っていたような気がする。友達でもいいか。私は差し出された手をゆっくりと握った。初めて触れた彼の手は、風呂上がりのせいもあるのかぽかぽかと暖かかった。 101219 |