通い慣れた玄関の前に立つ。事前にアポイントメントをとっていなかったが、この時間帯なら大抵彼は居るはずだということを私は知っていた。外からでも見える彼の部屋はカーテンこそされているけれどその隙間から光りが覗いている。帰宅済みであるというなによりの証拠だ。ピンポーン、と軽い調子で鈴が鳴った。

「はい、どちらさまで」
です。比呂ちゃんに数学で教えてほしいところがあって。今、大丈夫?」
「友人が来ているのですが、よいですか」

 もちろん、と即座に頷いた。柳生の友人といえば、おそらくはテニス部のメンバーだろう。様々な個性のある面子が揃っていることは知っているが、特に苦手意識はなかった。あの真田と同じクラスで、多少の面識があり会話もできるとなれば残りの者など怖くも何ともない。……というのは、あまりにも真田を過大評価しすぎであろうか。

 柳生とは家が隣同士なこともあって、幼い頃から仲が良かった。兄がいなかった私にとって同年とは思えないほどしっかりしている柳生は幼なじみというよりも兄に近い存在で、どちらかというと私が一方的に懐いていた。面倒見のいい彼なので我儘し過ぎようと突き放すようなことは無かったし、高校生になった今でも家にあげて勉強を教えてくれる程度のことはしてくれる。彼の優しさにほっと安心して変な笑い声が出てしまった。奇妙な目で見られるのが痛い。

「いきなりごめんね」

 苦く笑えば、全くです、と小さなため息と共に彼はそう答えた。諦めているという感情もそこからは伺える。この会話は毎度繰り返されていることだった。毎回たまたま私が連絡するのを忘れているはずがない。ただのめんどくさがりだということを柳生は十分解っているだろう。そして、いくらするなと言ったところで直す気がさらさらないことも十分理解しているはずだ。

「なんの為に携帯電話を持っているのか。活用してくださいよ」
「ごめんごめん。ところで、どこで勉強してるの?居間?二階?」
「二階です。先に上がっててください。飲み物は、オレンジでいいですか」
「あ、うん。ありがとう」

 リビングにいるであろう彼のお母さんに届くよう大きな声で「お邪魔します」と告げてからたんたんたんと階段を上った。上った先のすぐ右側にあるのが、柳生の部屋だ。友人がいるとのことで軽くノックをした。中から声が聞こえる。聞き覚えのある声だった。

「なんだ、仁王か」

 扉を開けば、銀髪にどこかすかしたような顔つきをしている仁王が教科書を広げていた。珍しいこともあるものだ。大きく目を開いてぱちぱちさせていると「なんじゃそれは。金魚の物真似か」と彼は厭味ったらしく言った。私は仁王とはそれなりに付き合いがある。それはやはり柳生のダブルスパートナーとして組んでいるということで柳生と彼の関わりが深いということももちろんあるのだが、中学生時代に何度か同じクラスになったこともあったからだった。だから、彼がどのような人物であるか表面的にも内面的にもある程度は知っているつもりである。少なくとも仁王は平日の夜に友人宅でテスト勉強に励むという性格ではない。訝しげに彼を一瞥していると、彼はぽんぽんと柔らかなマットをたたいた。座れということか。無言のまま仁王の正面に腰を下ろした。

「柳生んとこにくると三回に一回の確率でお前さんに会うんじゃけど」

 ただの幼なじみにしては仲が良すぎないか、執着しすぎではないかと言いたいのだろう、半笑いを浮かべていた。私は「幼馴染だもん」と彼の言葉の棘に気が付かない振りをして平然と答えた。目の前に開かれたノートの数式に意識的に目をやる。薄い字で綴られている長々とした回答に眉をひそめた。

「あいつに彼女ができたことは知らんのか」

 カリカリという音を立てて数字を連ねていく仁王の手をじっと見ていた。彼には脳が二つあるんだろうか。少なくとも私はこんな問題を解きながら他の事を考える余裕なんて無い。それとも、口にした内容が私にとってあまりにも大きな問題だからそう感じるのであろうか。仁王にとっては「今日の晩御飯何」とどうでもよさげに母親に尋ねたものと一緒だったのだろうか。

「知ってる」

 仁王は私ではないので当然だよね。そう思いながら私は彼の質問に答えた。案外冷静な声が出た。

 柳生に彼女ができたという情報はもうとっくにつかんでいた。なんだかんだいって、テニス部のメンバーは学内でも注目を浴びている。彼らが誰かと付き合っただの別れただのというどうでもいい情報は、光が伝わる速さと同じくらい速く広まっていく。ただでさえ人数が多い立海大付属だ。目撃する人も多ければ、それを広めようとする野次馬な存在も多い。私の耳にその噂が届くのもあっという間だった。

 今まで不思議なことに柳生には特定の彼女がいなかった。それをいいことに私は幼なじみとしての自分の立場を利用しまくっていた。嫉妬に晒されることがないように、公共の場ではないところで柳生に近づくという姑息な方法を取るために幼なじみの特権とやらを使用し続けていた。

 私は柳生のことを好いているのか。それは幾度も自分に問いかけたことだった。結論として、恐らくそれは肯定である。好いている。けれどそれが、恋愛であると安易に結びつくかどうかはわからなかった。まだ問いている最中である。何故そこで戸惑ってしまうのか、それが不思議でならなかった。私が柳生に執着してるのは端から見ても明らかだし、私も今現在私の生活の中にいる異性の中では最も好きなのは柳生だと断言することができる。けれど、柳生とキスやそれ以上のことがしたいかと言われればそれは否だった。感情が真っ向からそれに抵抗する。それが恋愛として彼のことを好いていないときっぱり言い切れるわけではないのだが、そのような行為を避けて通るのが難しいということも知っていた。ならばきっと私は柳生のことを友人として幼馴染として好きなのだとそう思いこむことにした。

 そして、私は幼なじみという付き合い方によっては一生切れることのない穏便な位置に留まることに決めた。いずれ彼に彼女ができたとしてもそれを幼馴染として応援するんだと。だが、実際に目の前で突きつけられると彼女に酷く嫉妬する自分がいた。柳生にとって一番近しい女の子は自分でいたいという浅ましい感情がふつふつと沸いてきたのだ。

「もう気軽に遊びに来ちゃいけないってことは、わかってるよ」

 そんな私の感情をもちろん仁王が知っているはずもなく。もちろん彼にそれを吐露したくはなかったので、口にはしなかったけれど、人間観察の得意そうな仁王なら柳生に気があることは気がついているのだろうという確信はあった。幼なじみか好きな人か。その中間をふわふわと優柔不断に迷って、最終的に安全な立場を選んだということくらいはなんとなく気がついているのではないかと思う。仁王を過大評価しすぎかもしれないけれど、彼は他人の内面を全て知ることができるのではないかというような行動を起こすことがある。自分が分かりやすい性格をしているということも含めて。

「けどさ、なんでそんなことに仁王が口出しするの。比呂ちゃんに頼まれでもした?」
「いや。あいつはお前さんのことを人任せにはせん。度が過ぎるようなら、自分ではっきり言うじゃろ」

 仁王の言い分は尤もだ。柳生は人を使って裏でこそこそすることを好むような人間ではない。真面目すぎるくらいだ。真田の厳格さとは異なり、まだ柔軟性のある真面目さ。では、どうして仁王はこのように他人のプライベートに口を出すのであろう。ただ面白そうだから言及しただけ、とか。彼ならあり得る。疑問が表情にでていたのだろうか、仁王は「わからんか」と言いながら口の端っこを持ち上げて笑った。

「比呂ちゃん比呂ちゃんって別の男の名前ばかり口にして、こっちに見向きもせんかった奴を振り向かせるにはいまが最高のタイミングじゃろ」

 眉を大げさにゆがめて首を傾げた。彼の言う「奴」とは私のことを指すのだろうか。もしそうだとしたら、仁王は私に関心があるということだ。唐突すぎて信じられるわけがない。今までそのような素振りをみたことがないし、仁王はそういう恋愛などといったことに関心がないのだと思っていた。否、彼も男性というカテゴリーに分けられるので関心がないことはないと思うけれど、絵に描いたような恋愛するというイメージに仁王が当てはまるような人物ではないと思っていた。不倫とか平気でしてそう、なんて私はどんな色眼鏡で仁王のことを見ているんだろう。

「柳生以外にもいい男がいるのを覚えときんしゃい」

 納得のいかない、懐疑そうな視線を彼にぶつけた。

「そう簡単に比呂ちゃん以外の人を好きになれるとは思えないけど」

 彼は知らない。どうして私が柳生と幼なじみの関係を保持していこうと決めたのか、その経緯を知らない。恋愛感情の先にあるものに答えることに不安を覚えて、足が竦んでしまっている自分を知らない。それでいいのか、と本当は言いたかったけれど説明するのにうまい言葉が出てこなくて、在り来たりなものしか言えなかった。

「好きになれと言っとるわけじゃなか」
「じゃあ、何で今そんなこと言ったのよ」
「気を紛らわす程度にはなれるってこと」
「仁王が?」

 仁王はそのとおりだと言わんばかりににこりと目を細めて微笑んだ。つまりそれは、今まで柳生がいたポジションに仁王が立ってくれて、そうすることで柳生がそうしてくれないという虚しさを埋めてくれたり紛らわせてくれるということなのだろうか。しかし、全くもって柳生と仁王では性格も間反対で、いつもなんでこの二人が友達として付き合っていけるのだろうか疑問に思っていたくらいだ。耐えきれないだろうという気持ちを込めて私は呟いた。

「それって比呂ちゃんみたいに朝起こしてくれたり、勉強の面倒みてくれたり、買い物に付き合ってくれたり、親がいない時にご飯作ってくれたり、ってこと?仁王そんなことしてくれるの?」
「お前……柳生にそんなことさせとんか」
「うん」
「まるで子守じゃ。よく耐えられるの、アイツ」

 だから仁王には無理なのだ。柳生の代わりなんていないんだから。大げさに不快という感情を露わにした私をみて、仁王は軽く吹き出した。

のお望みならば、やってもええぜよ」

 彼はそう続けた。私はまた何か反論しようと口を開きかけたけれど、一つ分のグラスを持った部屋の持ち主が入ってきたのでこれ以上話題を続けることはできなかった。どう考えても仁王がそんなことをしてくれるはずがないし、仁王にして欲しいと思うわけも無い。気持ち悪い。仁王と柳生に二人がかりで勉強を教わりながら、悶々と先ほどの言葉を脳内で繰り返していた。



不可解な会話

110218