昼だというのに、好き放題に体を広げている木々のせいで、夕暮れのようなほそぼそとした光しかこの場所には届かない。風に乗って、ざわざわ、と葉が擦れ合う音が辺りに響いた。―ここは、ギルドが現在調査を行っている遺跡があるB地区だった。本日の任務はこの遺跡周辺の警護及び研究員の護衛だ。アズレンは自らの小隊を率いて、辺りを巡察していた。も紅一点としてこの小隊に在籍しており、鈍く輝く鎧を身に付けながらアズレンと同様警護に当たっていた。

 さくさくと野草をかき分けて、道を歩む。視界があまり良いとは言い切れないが日ごろの鍛錬の成果もあり、剣士たちにとって特別苦な状況ではなかった。も視野の悪いことに警戒こそ強まっているが、歩けば歩くほど目もその光の度合になれ、冴えていった。ふと視界の隅にキラリと光る何かが映る。ガラスだろうか。は咄嗟に足をそちらの方へ進めた。

、危ないですよ」

 目敏く、アズレンに呼びとめられる。すいません、とはすぐさま視線をアズレンへと戻した。きらりと光るその物体は一体なんだったのか、注意されてはそのままのこのこと先へ進むこともできない。アズレン様、と彼にちらりと視界を掠めたその輝きを報告すべく口を開きかけたところで、ぴくりと動きが止まった。ガラスかと思ったそれは一本の細い糸だった。罠だ。その事実にも驚いたけれど、罠が張り巡らされているということはここはもう敵の檻の中だということ。アズレンに視線を送れば、彼はとっくにそれに気が付いているようだった。緊迫した雰囲気が彼の背中から伺える。

 即座にして空気が変わり、ぴんとした緊張が辺りを包み込んだ。遺跡を覆い隠すように囲っている深い森の闇から数十人ほどの気配が獲物を狙う動物のように蠢いているのを感じた。あからさま過ぎるそれが、逆に警戒心を強める。は小声で背後からアズレンに声をかけた。

「アズレン様」
「わかっている」

 けだるそうな響きを残しながら彼はそう呟いたけれどその声色とは相反して動きに一切油断は見られなかった。ピィ、と空一体を震わせるような警笛を鳴らす。それを合図として一斉に野太い雄叫びが響いた。アズレンは瞬く間に剣を鞘から抜き、敵を切り捨てていった。風、という目には見えないものを連想させるほど身軽に動くその様子は綺麗と形容しても差し支えなかった。も襲いかかる殺気と向かい合うが彼には到底及ばなかった。

「これで最後か」

 この盗賊の統領だと思われる人物の前に立った。敵は顔こそ青ざめているものの、逃げるという選択肢を選ばなかった。否、選べなかったといってもいい。凍りつくような鋭い視線で睨まれては、その場から動くことさえも不可能にする。ぎりぎりと手にした一本の太い剣を強く握りしめながら、敵はアズレンから視線をそらさなかった。一瞬でもそらしてしまえばそこで自分の敗北が決定すると解りきっていたからだ。―刹那、無残にも肉の切れる音が辺りに響いた。

。敵の数は」
「多く見積もって三十人ほどです。大規模な組織の可能性がありますので、第二部隊がないとも限りません。油断は禁物かと」
「そうだな。では、奴らの見張りに二人。残りは俺と共に警護の続きだ」
「了解しました」

 指示に答えるように、部隊の者が一斉に動き始めた。ある者は、山のように積み重なっている負傷した敵の元へ縄を繋ぐために駆けた。また別の者は、警護と称し深い森の近辺に目を光らせた。自分も、とは一歩足を踏み出したが、それは遮られた。彼女の手頸をアズレンは容赦なく掴んだからだった。

「お前はこっちだ」

 ぐいと体を引きずられるほどの強い力で引き寄せられる。警護組みの方へ無理やり連れられた。

「え、どうしてですか」
「嫌だと言いたいのか」
「そういうわけではないですが」
「……先ほどの罠を見抜けなかったことといい、少し今日は様子が可笑しいだろ。俺の傍から離れて失敗されては困るからだ」

 掴まれた時の力の加減の無さにむっとしてしまったせいか、その時珍しくはそう反論した。アズレンは眉間に皺を寄せながらも、の感情の揺れが伝わったのだろう、しぶしぶそう口にした。隊長としての最もな言葉には言葉を詰まらせた。否、動揺が知らず知らず自分の内から態度として外に漏れ出し、なお且つその動揺をアズレンに悟られていたということにひやっとしたと言ったほうが適確であるかもしれない。心臓を冷たい手でゆっくりと撫でられたような嫌な感覚がした。鋭いアズレンの指摘と自分の未熟さに対する悔みから、は小さくすいません、と述べ彼の後を追った。その後は、目立った失敗もなく無事に護衛を成し遂げることができた。

「本日もお疲れ様でした」

 至って穏やかな口調でそう告げられた時に、本当にこの日の任務が終わったのだと実感する。はふうと肩の力抜いて、腰にさした自分の体の一部といっても等しい剣に手を当てた。




 にとってアズレンは仕事上の上司であったがそれだけではなく、むしろたった一人の憧れの存在という意識が強かった。剣士として彼は尊敬に値すべき才能を持っているし、それに留まらず、人格も人から好かれるような穏やかな性格の持ち主であった。基本的に部下に対しては優しく接し、慕われている。アズレンに憧れて、ギルドへの参加を決心した者もいたくらいだ。彼女はどうかといえば、アズレンに憧れての入隊というわけではなかったのだが、それよりも特別な経歴を持っていた。そもそも、ギルドへの参加を見染めてくれたのが他ならぬアズレンだったのである。

 女剣士、とはこの時代、まだまだ希少価値の高い存在であった。女は武力を持つべきではない―そういう古い価値観が根強く世間には残っていて、歓迎されていなかったのだ。基礎的な体力でいえば、男性に劣るというのはもちろん理解できている。しかし、女剣士とて力を武器にするのではなく俊敏さ、知恵、技術全てを持って戦いに挑めば心強い戦力の一つとなりうるというのは紛れもない事実だった。それを理解していない輩がまだまだ多いだけの話だ。大して実力も経験もないは入隊試験の前に門前払いされるということもしばしばあった。そのような経験を幾度となく繰り返してはいたが、捨てる神もあれば拾う神もあるということで、はアズレンの傘下に配属する機会に恵まれた。

、少し腰が高いですよ。落としなさい」
「はい」
「相手の動きに囚われ過ぎます。太刀を予測することを心がけてください」
「……はい!」

 カツン、カツン、と剣がぶつかりあう最中でも、冷静にかつ的確に指示を出される。稽古自体は容赦がないが、女だと見くびらずに徹底してたたき込んでくれるところもまさにアズレンらしさだった。彼の指導は的を得ているからこそ時に自分の成長の無さとそれに対するやり切れない感情を実感させられるけれど、気分が落ちている時に限って稽古終わりにこう彼は呟くのだった。

「焦らずに自分の太刀を会得していけばいい。貴方が努力していることを私は知っていますから」

 ぽん、と触れた暖かい感触に涙を零したことも数え切れない。このような事実から次第にの中でアズレンへの気持ちが憧れから恋心へと発展いったとしても不思議な話ではなかった。しかし、相手は今はもう兄弟にその地位を譲ってこそいるが過去には実家の統率者ともなるほどの身分の高い人なのである。本来なら懸想をしていることさえも無礼に当たるかもしれないほど遠い存在だった。一人の剣士として彼の後を追うことができるほど幸運なことはないのにそれ以上を望むとすることは全く愚かな行為だと、は自分の感情に蓋をし続けてきた。それがに与えられた唯一の選択肢であると言ってもよかった。




 しかし、アズレンに結婚の話しが持ち上がったという噂を聞いて、の感情は揺れ動いた。ここのところの様子が可笑しかったのもそのためだ。結婚という二文字に形容しがたい感情が蠢き、更に噂の出所は不特定で真実かどうかもわからない。の頭はそればかりが占めていた。この煩悩を取り除くためにアズレン本人に問いただすのも一策としてあり得ただろうが、洞察力の鋭い彼のことだ。そんなことをしてしまえば、自分がアズレンに好意を持っているということを悟らせてしまうかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。避けねばならなかった。今後、尊敬する上司として付き合っていくためにもそれは触れてはならない事実だった。だからといって、素直に彼の結婚を喜べるわけでもない。複雑な感情が渦巻いては消え、流れるように月日は過ぎていった。

 ギルドの遺跡の近くで賊と顔を合わせてから、数週間ほど間が空いた日の夜だった。与えられた個室で日誌を綴っていると、こんこん、とドアをノックされた。このような夜遅くに人が訪ねてくるとは珍しい。エーテルだろうか、と不思議に思いながら日記を書く手を止めて返事をしながらドアへと近づいた。

「アズレンですが、今、よろしいですか」

 聞こえてきた声は、予想すらしていなかった人物のもので、咄嗟にドアを動かない様に内から押さえつけた。その警戒を汲み取ったのだろうか、外からは苦笑いにも似た声が聞こえた。

「夜遅くに申し訳ありません。本来ならもっと早く訪れたかったのですが、用が割り込んでしまったので」
「……どうなさったのですか?」
「少し、貴方にお話したいことがあるのです。開けてくださいますか」

 そういう風に言われてしまっては元より好いている人なのだから警戒も薄れてしまう。静かにドアノブを回せば、若干疲労を伺わせるような顔色のアズレンがそこに立っていた。いつもきりっとした任務時の彼しか見ていないせいか、その色の悪さには少し困惑した。慌てて室内へ招き入れて、ベットへと座らせる。個人用に与えられた部屋なので、もちろん客間などあるわけもなく自然と彼はそこへ腰を下ろすこととなった。何か飲み物をといってポットに手を伸ばしたけれど、それはアズレン自身によって遮られた。

「話を、聞いてもらえればそれだけでいいので」
「あ、はい。……それで、私に一体どのような御用件でしょうか」

 視線が近くでぶつかり合う。幾度となく経験していることではあったが、密室に二人きりという今までなら想像もできなかった場で行っているからだろうか、違和感は拭えなかった。一呼吸置いた後に、彼はがここ最近ずっと胸の内で気にしていた事柄をはっきりと口にした。

「私に、結婚の話が持ち上がっていることを貴方はご存知でしたか」

 当人から直接その話題を言われることとなるとは思ってもみなかった。ぴくり、と体が反応してしまったことから、知っていたのですね、と冷静な声色で彼は告げた。素直な自分の態度にやや情けなく思いながらもこくりと首を縦に動かす。考えは動揺から別の方向へ飛んでいた。結婚の事実を何故に告げる必要があるのか、と。それもこのような個人的な場で。疑わしい視線を彼に向けていたら、ふっと緩く微笑まれた。

「相手の方の名はご存知で?」
「有名な貴族の御令嬢ですよね。幾度か耳にしたこともありました」
「貴方はどう感じられました?」
「どう、とは。実際に目にしたことはありませんが、悪い噂もなく、可愛らしい方だと存じ上げておりますが」
「それだけですか」
「はい。……ええと、お相手の方に何か気がかりな点でもあるのですか」

 きょとんと、は首を傾げた。相手の女性に対して、同じく女性の自分から見た印象が知りたかったのだろうか。しかしそれならば人脈のあるエーテルの方がその相談役にはふさわしいとは思うのだが。不思議そうな眼で見つめるに、アズレンは困ったような表情を浮かべた。

「期待しすぎましたか」
「何がです?」
「……私は、貴方がこの結婚に対して不満を抱いているのではないかなあと、邪な期待を抱いていたんですよ」
「え?」

 どういう意味だろうか、と考える間もなく、暖かい腕に抱き寄せられた。任務時に見せる、無遠慮さは全くない。優しく、且つ自然にぽすりとアズレンの胸に収まった。くん、と海のような深い香りがの鼻に広がる。アズレンがこれまでにないほど近くにいるという事実を証明するには十分だった。取り乱そうにも、ぎゅっと喉仏が緊張で収縮し、声もでないほどだ。抵抗をしないのをいいことに、アズレンの腕に込める力は段々と強くなった。

「私の気持ちはもうお分かりですよね。……貴方のお気持ちも聞かせて頂けませんか」

 低い声が鼓膜を震わせる。は、己の感情を口に出すべきではないということをわかりきっていたのに、戸惑ってしまった。目の前で彼が紡いでいる言葉は幻聴にしか聞こえないが、触れる感触や温もりは現実味を帯びているのだ。混乱するのは当然だと言える。じっと真意を確かめるようにアズレンを凝視しているに対して、彼は、決定打となる単語を囁いた。

「好きです」
「……そんな」
「事実ですよ。今回の結婚は私にとっては誤算でした。私は貴方のことを好いているのに、他の方を娶ることはできません。しかし、付き合ってもいない彼女を理由にお断りすることが許されるような相手でもありません。……答えを聞かせてもらっても、よろしいですか」

 つまり、彼が言いたいのは今ここでが彼の言葉に頷かなかったら、結婚を承諾するということだ。反対に、もしもが彼のことを好いていると口にすれば結婚の申し出を断る覚悟があるということでもある。の動揺が手に取るように解るのか、口の端っこを持ち上げた。

「真実を口になさい。大丈夫です、貴方を支える覚悟はとうの昔にできてますから」

 あやすように、ぽんぽん、と背中を撫でられる。真実を、という言葉に、自分の態度は彼に筒抜けだったのだなという事実を悟った。上手く隠しているつもりではあったのだが、洞察力の鋭い何歳も年上の上司には通用しなかったのだ。ならば、嘘を貫き通しても仕方がないだろう。現に自分は彼のことを欲しいと願ってやまないのだ。彼の今後の道を考えれば、身分のつり合うような女性と共になったほうが何倍も利益となろう。それほどの後ろ盾が彼女には全く存在しない。だが、自分の欲望に人間というのはとても正直なようで、感情の赴くままにはアズレンの服の裾をぎゅっと握りしめた。顔をゆっくりとあげて、彼の深みのある色をした目を見つめた。

「アズレン様」

 名前を呼んで、一つ大きく息を吸った。

「……私は、貴方の傍にいたい」

 言ってしまった、という後悔の念は、嬉しそうに微笑んで自分の名を呼ぶアズレンの姿が目に入った瞬間に掻き消されてしまった。は、突然身に降りた幸せをかみしめるように彼の背中に腕を回し、自分からもぎゅっと抱きついた。




どうしても伝えたい音色がある

101231   ( title by.cathy