静かな空間に耳をすませる。カチカチと奥に配置されている大きな時計の音が聞こえた。跡部の部屋の私物はどれもこれも見たことのないくらい高そうで、私の部屋には存在しない様なものが沢山置かれている。テーブルもソファもさわり心地が抜群で、特に歌に出てくるようなアンティークの時計は私のお気に入りだった。ガラスの奥でゆらゆらと揺れる振り子を眺め、刻む音を聞いていると自然と心が落ち着くのだ。初めて部屋に入れてもらった時に、ふわふわのソファでもなく、可愛らしい紅茶のカップでもなく、大きなグランドピアノでもない、古時計をじっと見つめていた私を跡部は少しだけ意外に思っていたらしい。「渋い趣味をしてんな」と言われたのは何時の事だっただろうか。もう随分と―高校生の私たちの時の感覚からすればとても―昔のことの様に思う。

 今では、別次元の様な彼の部屋にも気後れせず堂々と出入りできるようになった。跡部の了承を取る前にキングサイズのベットに飛び乗ることだってよくある。入るだけでガチガチと緊張していたあの時の私は何処へ行ったのだろうと笑いたくなるが、それだけの付き合いが蓄積された結果だと思えば悪くない変化だ。ファンデーションがつかない程度に、枕に顔を近づけた。ふんわりと、跡部の匂いがした。それは正しく言えば彼の匂いではなく、彼が身につけている香水の匂いなのだが私はそれが嫌いではなかった。

 カーテンの隙間から見える灰色の景色に目を向ける。多くの人間が恋しくて仕方ないであろう休日に、今にも雨が降りそうな天気は似つかわしくない。この鬱々とした気持ちを吹き飛ばすくらいの快晴が相応しいはずだ。黒味を帯びた雲が流れていくのを眺めていると、それほど良くは無かった私の機嫌が更にゆっくり落ちていった。それでなくともここのところ気分が沈みがちだったのに。「ねえ」と静かな空間に水を差すように声を落とした。

「跡部はずっと私の傍に居てくれる?」

 ごろん、と広いベットの上に横なった状態で跡部に問いかける。ソファに腰かけて本を読んでいた跡部は私の呟きがきちんと耳に入ったらしく、綺麗な顔をくいと上げた。本を読む手を止めて、視線を私の方へ寄せる。黒いフレームの薄い眼鏡を付けた跡部と目があった。真っ直ぐな、人を射抜くような瞳が私の胸を突き刺した。

「ずっと?」
「うん、そう。ずっと」

 彼は顔色を少しも変えずにこう告げた。

「お前は、どう答えてほしいんだ」

 馬鹿らしいと一蹴されてしまうような問いを投げかけるのは、何かしら不安を感じている合図。言葉で優しく慰めてほしいという気持ちの表れだ。跡部は鈍い人間ではない。ちょっとした私の動作や態度、なにより口にした言葉で求めているものが何なのかそれにちゃんと気が付いている。それなのに、彼はその言葉をくれようとはしなかった。私は拗ねたように跡部を睨んだ。「嫌な人」と告げる。彼は黙って私の反応を伺っていた。負の印象を持つ言葉を吐いたというのに、全く響いていない様だ。ムッと眉を顰めたりめんどくさそうに視線を逸らしてくれればまだ彼が何を考えているのか理解できるのだが、こうも無反応だとどうしていいかわからない。何もかもを見透かしてしまうような青い目が二つ、私を捉えて離さなかった。

 私はその瞳の強さに堪えられず、ふいと視線を逸らす。

「もういいよ。言わなくていいよ」

 ぐるりと身体を反転させ、布団に潜り込んだ。深く息を付く音が聞こえる。ギシとソファが揺れ、彼が立ち上がったのが解った。そのまま、気配が近づいてくる。私は少しだけほっとしていた。先ほどは何かしらの反応が欲しいと思ってはいたが、もしも「くだらない」と一蹴されてしまったらそれはそれで立ち直れずにいたはずだ。矛盾しているなあと心の中で移り変わる感情に一人ぼやく。

「なんて言ってほしかったんだ」

 「ん?」と催促するような、甘い声を跡部は零す。耳元でその囁きを聞くと、脈がとても速くなり、耐えきれない恥ずかしさが自らの身体を襲うのはいつものことだ。白いシーツに映った濃い影を見て、身じろぐ。背中に彼の手が触れる感触がした。優しく撫でられる。あやすような感覚にドキドキしてしまって、もう我慢ならないと口を開いた。

「ずっと傍に居るよって」

 自分から言ってほしい答えをそのまま言葉にして催促するなんて、みっともない。できることなら、嘘だとしても、跡部自らの意思でそう答えてほしかった。こう言っておけば大人しくなるだろうという投げやりな態度でも良かった。音として吐き出された言葉を胸に留めて、それだけで心の中に広がる不安が軽減するかもしれないと思っていた。

「……跡部の描く未来に、私は存在しないんだ」

 自分でも理解している。馬鹿な事を聞いている。跡部は自らの感情に素直な人間だ。好きでない人間と付き合うわけがない。今、私が跡部の彼女というポジションに落ち着いているのならば、それは跡部が横に居ていいと、跡部本人が私の隣にいることを望んだということだ。仮に今、「私のことが好き?」と聞けば跡部は軽く笑って「当り前だ」と返してくれるだろう。それは、今現在の気持ちだからだ。

 誰だって先のことはわからない。少し先の未来ならば、私の存在は跡部の中にあるかもしれない。けれど、十年後、二十年後、三十年後は。未だ成人してもない、十代の高校生がはっきりと明確な答えを自信という裏付けを持って言えるわけがなかった。否、例え、どれだけ年齢を重ねたとしても、確信をもった答えは出せない。所詮、確信など思い込みに過ぎず、どうなるかは誰にもわからないのだ。

 私は跡部の手に縋りたくて、そっと手を伸ばした。跡部の手はとても冷たく、むしろ自分の温もりが奪われていくような感覚がした。動揺、しているのだろうか。安心を得るどころか疑心ばかりが増えてしまう。指先を絡めたいと言わんばかりに、右手を押しつけた。跡部はそれを受け入れてくれた。ぎゅ、と手の平の皮膚という皮膚が触れあう。硬い肉刺の感触がした。

「反対に聞こう。の描く未来に、俺は存在しないのか」

 想像をする。頭一つ分背の高い跡部が隣に居る未来は果たしてくるだろうか。いつも寝る前のふとした時、煩くなってきた教師の進路指導の最中に考える時、私の隣に跡部の姿がある時もあれば無い時もある。何時まで一緒にいれるのだろうと考えるようになったのは随分前のこと。別れをまるで前提しているような自分の思考に情けなくなったり、当然のことに様に思ったりする。

 ぐらぐら、ぐらぐら揺れる。不安定でバランスが取れない。それは、私が跡部をとても欲しているから。いつまでも一緒に居たいと思うからこそ繰り返し懸念するのだ。

「……いたらいいな、と思う」
「いいなって、それだけか」
「先のことなんてわからない。跡部だってそう思ったから、答えてくれなかったんでしょ」
「まあ、そうだが」

 「やっぱり」と呟く。跡部はその言葉を聞き咎めて、私の身体を覆い隠していたシーツを捲った。温もりが逃げていく。反射的に後ずさったけれど、さすがに現役でスポーツをしている人間に反射能力で勝てるわけがなかった。くいと腕を引っ張られ、私の身体は跡部の腕の中にすっぽりと収まった。

「ずっと傍に居る約束はまだできない。けど、いつか、言ってやれる時が来る」
「今がいい」

 即座にそう答える。跡部はそこでこのように返されるとは思っていなかったらしく、目を一度瞬いて、それから小さく吹きだした。私はセッカチなんだ。頬を膨らませながらそう答えると、わかったわかったと言わんばかりにぽんと軽く頭を撫でられた。

「もうちょっと、待ってろよ」

 きつく繋いだ右手とは反対側の、左手。そのまま、薬指の付け根に軽く口付けられた。それの意味するものは一体何だろう、なんて問わなくても解る答えだ。まじまじと柔らかな唇が触れた指先を見る。そして、跡部の表情を伺う様にそっと視線を上げた。呟いた声は飲みこまれる。否定の言葉は受け付けないと言わんばかりに、深く深く求められた。なんだ、跡部の方が私よりもよっぽど。心の中に浮かんだ言葉は、胸やけする様な甘ったるい世界に溶け込んで形を成さなくなった。少なくとも跡部の想像する未来に私の居場所は存在するのだ。そう考えると、もうどうでもよくなってしまった。今感じられるのはたった二つの体温だけ。跡部に誘われる様に、甘美な世界へと落ちた。






探り合って、確かめ合って

111004