受験とは孤独なものだ。いくら有名な進学校に通ったとしても、結局のところ受験とは個人一人一人の戦い。もくもくとノートや紙にペンを走らせて、頭の中に詰め込むしかない。夏が過ぎ寒くなると同時に、より一層独りでの勉強を強いられる。机に向かって、学校に行って、また机に向かって。その生活サイクルが段々と日常化してきた頃に、どうしようもない辛さが襲いかかってくる。

 今日もまた、塾から帰ってお風呂に入ってご飯を食べて、また机に向かうことの繰り返し。それに飽きたと零しても、受験から逃れられるわけではない。まだまだ何日もその解放までは時が残っている。また頑張るか、と少しの休息のあと、数学の教科書を開いた。その時、ピンポーンと聞きなれた玄関チャイムの音が響いた。私の家は狭いので、このような高い音はどの部屋にいても聞こえてくる。普段ならこのあと、はあい、と軽い調子で返答した後に母親が玄関口を開けるのだが、今日は両親ともに祖父母の家に出かけている。私たち兄弟はお留守番だった。上の兄はこの時間帯ならまだ恐らく、下の仕事場にいるだろう。明日のチェックをしているに違いない。次男の兄は、最初からあてにしていない。ということで、最終的に私が出ていくほかないのである。もう、と軽くため息をつきながらも、再び響いたチャイムの音に急かされるように駆け足で玄関に出た。

「どちら様ですか」

 ガチャリ、と相手の顔を見ずにそのまま扉を開けた。見慣れないきっちりとしたスーツが私の視界の真正面に入り、少しだけ思考が停止してしまう。大方、近所のおじちゃんかおばちゃんが回覧板を回しに来たか、それともお裾分けといって野菜・煮物・果物などを持ってきてくれたのかそのどちらかだと思っていた。それだけこの町内はご近所づきあいが盛んだったのである。もしくは宅配便のお兄さん。けれど、目の前の人は深い緑にちかい仕事着を纏ってはおらず、それどころか品のいい香水までつけていた。

「お前、か」

 低い声がやんわりと鼓膜を震わせる。名前を呼ばれたことに驚きながらも、ゆっくりと顔をあげた。そこには、きりりとした顔の男性が立っていた。顔立ちが最後に見たときよりも格段に大人っぽくなって―それは、今彼が身につけている格好のせいもあると思うが―忘れていた感情が再熱してくる。あまりにも突然の再会に、私はなんと言葉を発すればいいのかしばし忘れてじっと彼の姿を眺め続けてしまった。彼はその様子に不思議そうな顔をしながらも、わしわしと大きな手で私の頭を撫でてくれた。

「大きくなったな」

 かあっと顔が赤く染まる。この言葉は、久し振りに会うたびに、それこそ小学生のころから言われ続けてきた台詞だ。またこの台詞が聞けたこと、つまり彼と出会えたことに喜べばいいのか、それとも、彼にとって私という存在はいつまでたっても子どものようなものなのかと嘆けばいいのかわからなかった。じっと吸い込まれそうな青と視線を合わせていると、後ろから大きな声が上がる。

「あっれ!跡部じゃん!どうしたの、うちくるなんて珍しー!」

 石鹸の香りを漂わせた風呂上がりの次男坊が、私の背中にのしかかるように突撃してきた。さっぱり湯で体を洗ったせいか珍しく目が冴えており、久し振りに会う同級生に喜びの声をあげている。私は背中に乗り上がらんばかりに体重を掛けてくる兄に対して叩くという行為で抵抗した。痛い、と恥ずかしさもあって加減を忘れて叩きすぎてしまったのか兄から抗議の声があがった。

「もー!、そんな叩かなくてもいいじゃん」
「じろにいが体重掛けてくるからでしょ!重たいんだって」
「……相変わらずだな、この兄妹」

 このまま兄妹喧嘩勃発かと思いきや、冷静な一言が横からはいった。そうだ。お客様を玄関先に立たせたままだったのである。しかも、すっかり気候も秋めいてきたこの十月の初旬の夜である。夜風は涼しいというよりも寒い、という表現に徐々に近づいていた。私は慌てて彼を中に招き入れ、リビングに通した。

「あ、紅茶とコーヒーと緑茶があるけど」
「夜だし、緑茶で頼む。コイツには寝れない様にコーヒー入れてやってくれ」
「ええっ、俺、オレンジジュースがいい」
「この人、コーヒー系はコーヒー牛乳しか飲まないので。オレンジで」

 跡部は呆れたように成人済みの兄を見やって、仕方ない奴だと軽く笑った。いつまでも過去の面影を残したままの兄を見るのは、少しだけ彼も嬉しいらしい。ポットからこぽこぽと音を鳴らし急須にお茶を入れる。少し待つ間に冷蔵庫から100%と大きく書かれたオレンジを取り出して兄専用のコップに注いだ。二人用を揃えて、リビングへと運ぶ。パジャマ姿の兄とスーツできっちりきめている跡部がソファで向かい合っている姿はなんとなく可笑しかった。

 跡部と兄の慈郎の付き合いはとても古い。それこそ、幼馴染といっていい類いに入る。テニスという共通の趣味もあっただろうが、その垣根を超えて対照的な性格をしている二人は仲が良かった。だから、こうしてただの妹である私も跡部のことを知っているし、跡部も私の存在を顔を見てぱっと名前が呼べるくらいには知ってもらえている。私が小学生の頃なんかは、見目に似合わず面倒見の良い跡部に遊んでもらった記憶が多々ある。いや、遊んでもらったというよりも勉強を教えてもらったことの方が多かった気がするが、実の兄は寝てばかりであまり構ってくれなかったので貴重な存在であった。二人が大学に入り校舎を共にしなくなってからは、ある意味当り前ではあるが、私の目に見える範囲での交流は減っていった。就職してからは尚のこと。先ほど彼が、大きくなったな、と言っていたが私が彼と最後に会ったのは恐らく4年前だ。まだ私は中学生だった。随分時間が経ったなあ、と私もまた最後に見た大学生姿の跡部を思い返しながら、現在の跡部と比べて懐かしい過去に思いを馳せた。

 二人に飲み物を運んでから手持ち無沙汰になってしまったので、二階に上がろうとリビングのドアを静かに開ける。なんとなくこの場にいて、二人の話を盗み聞くのも都合が悪いことのように思えた。

、二階あがるの」

 こういう時だけ鋭い兄が後ろから声を掛ける。うん、と私は小さく返事をしてそのまま急ぎ足で階段を駆け上がった。自分の部屋のドアを閉めて、ごろん、とベットに横になる。机の上ではまだやりかけだった数学のノートが寂しく開かれていた。本来ならば今日のうちに終わらせなければならないものだったけれど、どうにも手がつかない。あまりにも突然の再会に、私の心臓は煩く早鐘を打っていた。

 私の初恋は、跡部景吾だった。初恋、というには少々幼すぎたかもしれないが、身近にあのような素敵な年上の男性がいれば、憧れをもつことはなんら不思議ではない。その証拠に、私の幼い頃の友達に、初恋は誰、と聞けばほとんどの子が跡部景吾さん、と答える。それだけ、魅力的な人だった。もちろん、その感情は、年を重ねるごとに年齢差とそれに比例した当時の自分と彼の環境下の違いによってどんどん薄れていったけれど、このようにふと、思いがけなく再会して、更に彼が男らしく魅力的な人になっていれば過去のきらきらとした憧れの感情が蘇るのも無理はないことだろう。

「あー……不意打ちすぎ」

 触れられた頭の熱が収まらない。久し振りに見た彼はとても大人っぽくなっていた。元々大人っぽい人だったけれど、社会人として働きはじめたせいか、より一層しっかりとした印象と自立した男の逞しさを感じる。

 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。

「俺だ。入ってもいいか」

 その低い声はどう聞いても私の兄達のものではなかった。先ほど聞いたばかりの甘い響きを含んでいる音。返答に詰まる。というかそもそも、あんまり綺麗じゃないこの部屋に跡部が入るのはちょっと勘弁願いたい。がさがさっととりあえず散らかっているものを布団の下に隠した。今開けます、と慌てて自らドアに赴いた。なんの用があるのだろう、と疑問に思ったのは確かだったが、それよりも跡部と向き合うという事態に緊張がピークに達した。

「何か用ですか?」
「ああ、まあ、渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
「そうだ。……それより、中に入れてはくれないのか」

 あんまり綺麗じゃないんだけど、と遠まわしに拒否の意を示してみたが、彼は構わないと一蹴した。昔からの付き合いがあるからか遠慮と言うものが賭けている気がする。一応年頃の女の子なんだけどな、と心の中で不満をこぼした。

「たまたま、この間行ったから」

 手の上に落ちてきたのは、無地の白い紙袋。中身は小さい膨らみを作っていて、この時期になると私たちの周りではよくみられるものだった。そっと取り出すと、思った通り、学業成就のお守りが姿を現した。ピンク色のそれは見た目も女の子らしくて可愛らしい。そういえば、高校受験の時は家族からいろいろとお土産だのなんだの言って手渡されたが、今回はまだ全く何一つもらっていなかったことを思い出す。

「ジローと、まあ、同窓会について電話する機会が今でも多いんだが。よく話題にするんだよ、お前のこと。出張先に学業で有名な神社があったんでつい買ってしまった」
「つい?」
「……いらないんなら返せ」
「いる!」

 跡部の伸ばされかけた腕をぱっと払って、小さなそれを自分の方に引き寄せる。あっという間だった。即座の反応にちょっと跡部は驚いたように軽く目を見開いたが、ややあって、やんわりと笑った。なんだろう、そのきゅん、とする表情は。いままで彼にとって妹のような存在であった私は彼にわりと甘やかされて育ったが、いつも彼は自信の表れが出ているのか気持ち得意げなにやりとした笑みが多かった。それが似合っているのだから、嫌いとか苦手とか思ったことはないのだが、どちらにせよ、柔らかい笑みを彼が見せるのはとても珍しいということだ。

「ありがとう」

 素直に口から出てきた感謝の言葉。それにこたえるように、ぽん、と柔らかい感触が上から降ってきた。心地よくてついうっとりと眼を細める。

「頑張れよ」

 うん、と私は首を縦に振った。受験は孤独だ。だが、周りに応援してくれる人がいる。それだけで、孤独ではなくなる。このようにわざわざお守りを買ってくれた跡部を含め、朝早い補習の日でも毎朝お弁当を作ってくれる母や、家庭内での不安ごとに巻き込まない様にそっとしてくれている父、兄二人だってそう。花の刺繍が施してあるそれをぎゅっと右手で握りしめて、私は跡部に向かって微笑んだ。






けして孤独ではない


*101004