さらさらと流れる川のせせらぎの音が耳をくすぐる。夕暮れが冴え水際にゆらりとそのさみしくも赤い姿を映し出していた。ことり、ことり、と緩やかに注がれる清酒の口付けてその舌触りを味わう。じんわりと口に馴染むその感触に彼は目を細めた。それを目にとめた彼女はあら、という表情を見せたのち膝の上に頭を預けている彼の額を冷たい手で一撫でした。このときばかりは武士として戦場をかけぬける姿を誰も彼からは想像しないだろう。男らしいというよりは綺麗と形容するべき容姿は今この籠の中、持ち合わせたなにも穢れの無い一面を見せている。彼女はよくやく喉を震わせた。
「跡部はん、お体に障りますえ。」
跡部はこの座敷から聞こえる透き通るような水音を大変好んでいた。血なまぐさい現世から逃れるようにその音を求める。普段は忘れているくせに、戦場へ出るとなるとこの場所へ戻り小石と水がぶつかることで生まれる小さな言の葉を聞きたいと心から望むのだった。何もこの場所からというわけではなく隣に彼女がいることを前提にするものだから、尚のことその機会に恵まれれば彼女からの一言がない限り永遠と耳をそちらへ向けているのだ。夕暮れ、しかも冬時となると寒さで身が凍るような思いをするはずなのに。
「もう少し。」
「…仕方ありまへんなあ。」
振り向きざまに甘い顔をして滅多に見れない笑みを向けられたものだから、太夫といえども頬を朱に染めてぷいと顔をそむけた。その様子にくつりと喉を鳴らすとまた瞳を閉じて聞き入った。いつ、これが最後の音となりうるのか。最後が来るのを今から恐れていてもどうもこうもないし、散る覚悟は人を殺めたときからできている。しかし、もしそのときが来たならば心だけでもこの音を覚えているように耳を目を心を全てをこの景色の中に溶け込ませてしまいたい。そうするとついつい彼女がくしゅりとくしゃみを零すまでかかってしまうのだ。
「うち、この音を聞くたびに跡部はんを思い出すようになってしまったんよ?」
ふふ、と彼女はもう何べん聞いたんやろか、と意地悪げに笑う。もう長い付き合いになる彼女の言葉には裏の意味が込められていることをわかっていた。武士はまるで花のよう。散り時を争うようにあっけなく散っていく。その身がいつ骸となって朽ちていくかその恐怖に彼女はおびえていた。肩書き上はただの遊女と武士。妾でも妻でもない我が身がそのようなことを思うのは甚だしい勘違いかもしれないけれどいつかこうして彼の髪の毛をゆっくり撫でることがなくなってしまうのではないか、共にこのせせらぎを聞くことができないのではないか、と考えただけで苦しいくらいの締め付けを胸が襲う。ここまで彼を染み付けなければこの痛さも感じぬままに生きていられただろうに、もう手遅れなのである。意地悪なお人やね、と零しながらもここまで彼が染み付いた人間は自身だけだろうと、それを誇りに思わずにはいられなかった。ああもう、随分とこの人に溺れている。
「いつになったら、春が来るんやろうね。」
「待ち遠しいか。」
「当たり前どす。」
刺すような冷たさに心まで弱ったような気持さえすると彼女はぼやいた。寒さに身を縮めて人が恋しくなるのもこの季節。彼女は遠出することなど少ないだろうが、白い雪の上に足跡を付けて歩くことは真っ白を汚していくようで罪悪感にさいなまれる。時として、その白を赤に染めてしまうので足跡など大したことはないのかもしれないが、心を鬼にして向っている半面どうもこのような情緒的な思考を捨て切れずにいるのは自分の甘さなのだろうか。体温の低い彼女の手を取ってゆっくりと口付けた。
「けれど、冬はこうして暖めあえるだろう?」
そこだけ燃え上がるようなぴりっとした刺激を感じた。時として彼は彼女以上に欲情的な表情をする。慎ましく酒を飲みながら自然に耳を傾けているかと思えば、本能を秘めた瞳をまっすぐこちらに向けて唇をついばむのだ。
「跡部はん…。」
知っていた。彼がここに来るときは必ずと言っていいほど、心がぽっかりと空いているときだ。妻や妾を抱え役人の仕事を抱えている彼には吐き出し口がなく埋めるすべがない。それを遊郭に求めるのは確かに理にかなっているけれど、それは彼女が私生活に一切かかわっていない人間であるからこそ作れる空間であるのだ。もし彼女が妾の場を望んだとしてもそれと引き換えにこの甘く切ない関係が失われる。そう考えると是非に是非にと落札しようとするものを振り切って望みの無い未来を見ているしかなかった。彼もそれをわかっている。繰り返す事柄。終わりが来るとすればそれはどちらかの死を意味する。姓や籍としてのつながりはなくとも彼が通ってくれればそれで。一時でも儚い夢を見させてあげることができるのならば構わない。
「。」
ぴしゃり、と窓が閉められて息遣いだけが残った。甘く甘く溶けてなくなってしまえばいい。かぐわしいにおいに包まれて彼はそう零した。泣きそうな顔をしたその頬に手を添えて、幾度も触ってきた綺麗な紅を己に写し取る。蝶のように軽やかに舞う彼女を閉じ込めることができればいいのに、とここに来るたびにそう思わずにはいられなかった。太夫としての価値はけして女としてではなくすぐれた芸子としても認められていること。そんな自尊心の高い役柄の彼女をどうして自分が落とすことができようか。外面がいいばかりに彼女を捉えて離さない自分を卑しいと皮肉りながらも開放することなど当にあきらめた。この欲が尽きるまで傍にいたいと願うのは果たして罪なのだろうか。
さらさらと流れる水の音だけは普遍的に流れ続けていく。交わることのない思いを抱えた彼らの行きつく先を懸念するように。
夕霧恋唄
*091016 ( photo by.24/7 title by.cahty )
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