ふと後ろ姿が私の視界の中に入ってきたので、思わず私は声をかけようと立ち止った。しかし、彼は私以外の誰かに駆け寄ろうとしているところだった。跡部、と口を開いた。喉が震えることはなく、かすかすとした空気のみが伝わっていった。当然、私の存在が届くわけがない。彼はそのまま自慢の脚力を利用して、まっさらでキラキラと輝いている光の中へ走って行き、消えた。残されたのは真っ暗な闇と、私ひとりだった。

「……という夢を見た。」
、……お前そりゃ、大分きてるな。大丈夫か?受験ノイローゼみたくなんなよ?」
「ふふふ、めちゃくちゃノイローゼ気味だよ、宍戸このやろー!さっさと推薦で決まりやがって!」

 机に伏せたまま、うだうだと今朝の顔色が非常に悪い理由について単語帳を片手に宍戸に語っていた。たまたま隣の席になった彼とは3年間同じクラスという不動の絆である。だから、意外なことに仲が良いのだ。そうして、3回目の秋がやってきたそのとき、おそらくほとんどの人が迎えるであろう大学受験という壁が私の前に立ちはだかっている。ちなみに目の前の青年はさっさと推薦で有名私立に受かりやがった。ぽこぽこと八つ当たり気味に彼の腕を軽く叩いていたら、はあ、と溜息をこぼされ腕を振りほどかされた。

「まあ、んな夢みたら逆切れだってしたくなるよな。」
「あまりの衝撃により昨日はそれから一睡もしておりませんが。」
「……目が死んでる。」

 ごろごろと机の冷たさに甘えながら、ぽつりと一言つぶやいた。

「会いたい……。」
「会いに行けばいいだろ?隣なんだし。」
「いや、会ったら溜まっていた不満やいろんなどろどろしたものをぶちまけてしまう…。なにより、あんまり会わないようにしとかないと免疫がつかない……!」
「……免疫ねぇ。」
「ああでも会いたい。」

 うざい、と口にしながらも適当に相手をしてくれる宍戸はなんだかなんだいって優しかった。いくら推薦で決まっていて、のうのうとしてても不安なんて皆無だとしても、周りの目があるからあまりにもだらけすぎないように気を張っていなければならないというのに。睡眠不足だから、話だって支離滅裂なはずなのに、相手してくれる人間って親友とこの人しか知らない。やつは絶対放置するに決まっている。だから、会いに行けないのだ。邪魔をしてはいけない。私だってこういうときに邪魔をされたくない。

「思うにそれは、一種の願掛けとかそういうやつ?大好きなものを断って、願いを叶えるとか。」
「違うよ。ただ私が、跡部がいない生活に適応するために会わないでいるだけ。んで、会ったらまた会いたくなって結局迷惑になるから、会いに行かないの。」
「ずいぶん、男前な思考だな。普通そういうのって会いだめしとくもんじゃね?時期的に、そういかないだけか?」
「さあね。」

 受かる受からないの不安もある。将来がはっきり見えてこない不安といったら半端ではない。特にセンターを控えた2〜3か月の間はじりじりして仕方がないのだ。でも、それだけではなく、お互いの方向性が全く違うので学部が合わないどころか学力も天と地の差の幅がある彼と私ではおそらく離れ離れになってしまう可能性の方が高くて。もし他県に出てしまうことになったら、私の生活の中に彼はいなくなってしまうのだ。そしたら、どうなるのだろう。夢で起きたことも、現実になりうるのではないのだろうか。

 再び、暗いくらい夢のことが思い起こされて黙ってしまった私に、宍戸はもう疲れ切ったのかガタンと席を立ってしまった。個人的には正しい選択だと思った。私だったらそんなぐだぐだとした腐りきっている話をこんな長時間聞けるような忍耐を持ち合わせてはいまい。ただ、そこまで他人のことを思いやれるような心境でもないので、ぐだぐだと落ちるところまで落ちているのだが。宍戸には悪いが、ストレス発散のいい対象になってもらったのだ。

 見えない未来の行く先はどこなんだろう。私は来年の今頃はどうしているのだろう。笑っているのか、泣いているのか、後悔しているのか。落ち着く場所は存在しているのだろうか。私の隣にまだあの人はいるのだろう、か。

「……会いたい。」

 せめて、一目だけでも。言い出したのは私の方から。しばらくは受験に集中しようと、いい予行演習だって笑って言ったのも私の方。でも、こんなに早くダメになるなんて、現実になってしまったらすぐさま終幕が近付くのではないだろうか。席を立って、足を踏み進める。進んだ先はほんの数メートル、教室のドアを左に曲がれば彼のいる空間に入ることができるのだ。一歩踏み出したそこにはドアの横に背を付けて立っている男と、苦笑してほらな、とか言ってる男がいた。

。」
「……宍戸のおせっかい。」

 くしゃ、と頭の上に大きな手が覆いかぶさってきて、自然と視線は目の前ではなく斜め後ろにいる宍戸に注がれる。彼は苦笑いをしながら、「それが俺の性格なんだからしかたねぇだろ。」と言いながら自分の席へ帰っていった。時はお昼休み。進学校のお昼休みとはいっても生徒は教室の中で必死にテキストにかぶりついているので、廊下に出ている人はまばらだ。だからこそこうやって彼は廊下へ出てきて躊躇なく私の肩を抱き寄せたのだろう。ぽん、と背中に温かい手が触れた。

「言い出したのはどっちだったけな?」
「ううう、病んでるときにその言い方はない。酷い……。」
「案の上、ストレスに侵されやがって。きちんと食ってもねぇだろ?無理すんなっつっただろうが。」
「言葉がいつにもまして辛辣すぎ…!」

 ただ、触れてくる手はそれとは反対にとても優しかった。ぐじゅぐじゅになっていた気持ちが爆発しそうになり、堪え切れない涙を思いのままに流しながら自分からも跡部に抱きついた。それはもうしがみつくような勢いで。

「この際だ、不安なこと全部ぶちまけちまえ。」

 しゃくり上げながら、私は思いの丈をぼそぼそと呟いた。繰り返しの毎日に嫌気がさしていること、なかなか上がらない点数に焦っていること、集中できない自分が嫌なこと、高校生活を終えたくないこと、跡部と離れなくないこと、見えない未来に不安定な気持ちでいること…。しかしそれは、誰だって同じ思いを抱えているのである。ただ、口に出すと現実になってしまいそうなだけでみんな心の中に抱え込んでいるのだ。目の前にいる跡部だってそうなのである、と彼の口から出たとき、「そうか。」と一言ぽろりと目から鱗が落ちたようにつぶやいた私を見て跡部は苦笑した。

「お前は俺には悩みがないとでも思っているのか?」
「そんなことはない…けど……。」
「先のことばっかり考えても仕方ねぇだろ、アホ。今のことを考えろ。会いたくなったら会いに来ればいい。邪魔になったら追い返してやる。それに俺だって、会いたいときくらいあんだよ。」

 触れ合ったぬくもりは暖かくて、心のもやもやを溶かしてくれそうな気分だった。近くにいる、ということはとても重要なことであるが、それゆえに離れた時が恐ろしい。けれど、うだうだ悩んでいてもいつか来るときは来るのだ。それに恐怖を抱いて、今をないがしろにするのはそれ以上に愚かな事態なのだ。

「いつまでも、傍にいたいな。」

 私がぽつりとつぶやくと彼は「当たり前だ。」といわんばかりにくしゃと頭を撫でて1つ優しいキスを唇に落してくれた。






Rainy world
焦燥とその先。

*090524   ( title by.cathy