カリカリ、とシャーペンを動かしていた手を止める。ピタリとその音が止まれば周りに訪れるのはただの静寂で。私は無言でぴらり、とザラ紙ではない綺麗な書類用のプリントを眺めた。大きく書かれている文字をゆっくりと頭に入れる。「進路希望調査」…なんて、高校に入ってから幾度も機会があるたびに書かされた。もちろん、それはうちが進学校だからという理由が大きいだろう。幾度も見慣れていたものだけれど、今回ばかりは少し違う。これは、「最後」の進路希望調査なのだ。私はゆっくりと頭を机に押し付けた。下書きはしたものの実際にそれをボールペンで上書きする勇気がない。怖い。ほう、と息を吐いてソファでゆっくりと読書にふける彼の姿を盗み見した。 跡部があのソファに座ると一瞬でちゃちなものから、超一流の高級品にいっぺんする。私のなけなしのバイト代で、それも安うりバーゲンの日を狙って買ったソレが。長い足を有意義に組みかけ、黒いフレームの眼鏡をかけて真剣に本に集中する瞳はなんだかとっても麗しい。我が彼氏ながら非常に麗しい。けれど、今日はそれが辛くもあった。くしゃり、とプリントと跡部を見比べて苦笑いする。どうしようもない。仕方の無いこと。 「跡部ー。」 小さく、呼ぶ。すると彼は「あ?」と言いたげな表情で顔を上げる。あ、これは少し怒ってるな。眉間のしわが増えた。面白いシーンだったのかな。そうするとちょっと悪いかもしれない。けれど、今ばかりは仕方ない。跡部に何が何でも話したかった。 「あのね、跡部。」 「…なんだ?」 「うん、実は、ね。」 「……あん?」 「……怒らないでね?」 「……ああ。」 段々と声色が怖くなっているのは誰にでもわかること。そして、彼の声でなく私の声色もじょじょに脅えたようになっているのも多分、わかること。さらにさらに小さくなっていく言葉の破片に、跡部は本から顔をあげて私を見つめた。蒼い瞳が私の姿を映す。綺麗だ。私は急に視線をそらした。あの瞳は綺麗で好きだけれど、何もかもを吸い取られそうで怖い。もじもじと机の上のものを見下ろす。中々言葉を続けない私に痺れを切らしたのか、跡部はそっとソファから立ち上がり私の傍に腰を下ろした。眼鏡を透明な机の上にカタンと置き、本もしおりを指して閉じる。始めはなんでもないような雰囲気をかもし出していたけれど、段々と私の様子がいつもと違うことを彼も察したのかもしれない。勘がすこぶる良い人だから。胡坐をかいてカーペットに座ったのち、彼はテーブルを見下ろした。 「進路希望調査がどうかしたのか?」 「…んー。当たってるようで外れてない。」 「…、はっきり言えよ。意味わかんねぇ。」 「(おおっと彼の眉間のしわが倍増しました、これはヤバイ!)実をいうとね、もしも私が遠くの大学に行きたいっていったらどうする?」 「遠く、というと……県外のか?」 「ううん。県外というよりもむしろ国外、なんだけど。」 「なんだお前、英語の点数最悪なクセに海外進出するつもりだったのか。」 「……あのー、スイマセン、もしも、の仮定の場合でお願いしますー!」 英語のみならずドイツ語やフランス語まで完璧に話せてしまう跡部に言われると、忍足に言われるのとでは非でないくらい腹が立つのでやめて欲しい。顔を突っ伏せながらもちょいと頭を横にずらして、き!と跡部のほうを向いてにらみつければクツクツと喉を鳴らして、笑った。 「べつに、どーもしねぇ。」 「……それって、私が国外行っても平気ってこと?」 遠まわしに「自分には別にてめぇだけじゃなくて他にも女がわんさか寄ってくるんだから関係ねぇぜハッハッハ。」とか聞こえるんだけどそれは気のせい?心の中の悪魔の声?ふとした空耳?……どれをとっても心の中に落ち始めた絶望感をさらに深く突き刺す理由には違いなかった。そっか、なんて小さくつぶやいてボールペンを握り締めた。不意に冷たくなった心を溶かすような暖かさが背中に宿る。きゅうと逞しい腕がおなかにまわる。 「違ぇよ。」 「何が…?」 「そんなくだらない仮説を立てている暇があるなら、とっとと本音を言ったらどうだ?じゃねぇと、俺も本気で答えてやらないぜ?」 「……!」 いくら仮説だと建前を言ったとしても、やはり彼には通用しないということ、か。きゅうと拳を握り締めた。手に張り付いた汗がじんわりと私の気持ちをあせらせる。けれど、やっぱり言うときは今しかなくて。ずっとずっと考えていた私の将来のことをやっと話せるときがきたとおもって私は唇をかみ締めた。 「イギリスにある大学に留学したいって思ってた。…じゃなくて、思ってる。ホントはずっと言おうとしてたんだけど、言えなかった……ごめんなさい。」 「お前英語の点数最悪なんじゃなかったか?」 「中学校の話を未だに引きずらないでよ。…私ね、高校に入ってからこれでも通訳になりたいっておもっていっぱい勉強したの。知らなかっただろうけど。」 貴方はいつでもテニスに夢中だった。別にそれが薄情だといっているわけではない。私も元々今の跡部に「通訳になりたい。」だなんていうつもりはなかった。けれど、不意に流れ込んできた海外留学の話に私はとても胸を高鳴らせた。日本にいても英語の勉強はできる。しかし、将来通訳として活躍したい私にとって文化や生活を肌で感じたいと思うのは当然のことだろう。今のままでの成績で申し分ないくらいに準備は整っており(氷帝の姉妹大学という特別推薦枠があったからこそ、だが。)、私もそれに答えたいとそう思っている。ゆっくりと彼の腕に手を回した。 「いってこい。」 「ホント、に…?」 「俺に止める権利はねぇだろうが。ばーか。」 私が恐れているのは、何なのだろう。まさか、彼が私に「いくな。」とそう言うと思っていたのだろうか。いつだって彼は私の背中を押してくれた、そんな存在だったというのに。あっけに取られている私の頬に小さくちゅ、とついばむように口を寄せた。 「それに、だ。もしもそれが俺の場合だったらどうする?俺が海外に留学したいといったら?」 「……行って欲しい。私のせいで跡部が本当に行きたい学校を諦めるのは、嫌だ。」 「俺もも同じだ。俺もそう思ってる。」 でも、もしも跡部が自分から海外に行くっていったとしたら胸の中は今の私よりも寂しさでいっぱい、だよ。私のことがどうでもいいわけではないと知っているけれど、自分と夢を天秤にかけてしまいそうになる。……跡部も今、この寂しさを感じているのかな?そして、少なくとも4年間はこの思いに耐えなければならないのかな。 「……跡部、あのさ。」 「あ?」 「ゴメンね、勝手に決めてしまって。ゴメンね、欲望に正直で。」 「そんなに謝らなくていい。結果的にお前は俺に問いかけた。ギリギリになるまで黙っていたことには……やっぱ納得いかねぇが。」 「う……。だって、やっぱり怖かったんだもん。」 「どーせ、別れるとか言われると思ったんだろうが、な。」 残念ながら、別れないぜ?、なんて冗談めいた言葉で跡部は耳元で囁いた。あのね、一度言っておきたいことがある。どうして貴方はそんなに私を泣かせてしまうような言い回しばかりするの。普段はずっと不機嫌で特に試合前になると私のことなんて視界から忘れ去さったような態度を取るくせに。ずるい、こんなの。 「それにイギリスなら別荘だっていくらでもあるんだ。休暇とって何度でもいってやるぜ。ただでさえ大学は休みが多いんだからな。」 「ははっ、そんなの跡部だからできることじゃん。」 「そーだな。だから、お前、俺でよかったんじゃねぇ?無理に駄々こねて縛り付けるわけでもないし。」 「ホントはそうしたいんでしょ?ってか、私だったら本音はそうだもん…。」 「さあな。」 くすり、と笑った彼の横顔は少しだけさびしそうに見えた。あながち外れていないのだろう。私はくるりと向きを変えてぎゅとその首に抱きついた。するとふっと耳元で笑うような声が聞こえ、きゅと向こうから更に抱きしめられた。ごめんね、ありがとう。の意味をこめてこめかみ辺りにそっと口付けを落とす。 「跡部…好きだよ。ありがとう。」 「知ってるそんなこと。…、向こうで浮気すんじゃねぇぞ。」 「むしろそれはこっちのセリフなんですけど。」 ム、と口をへの字に曲げてそう言い返してやると、その唇に食いつかれた。手のひらに握り締められていたボールペンがポトリとカーペットに落ちる。後でそれを拾い上げて、きちんと正式に書類に記入しよう。そして、先生にもきちんとお返事しよう。ほんのりと心の奥でそう考えながら、私たちは長く口付けを交わした。 イエス、と答えることの出来る勇気をくれた貴方に、最大の感謝と愛を。 *071103 (「Prince!Prince!」さまに献上します。こんな素敵企画に参加することが出来、嬉しく思います!ありがとうございました!べさま愛してる、よ……!) title by.リライト |